油島
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地図で見ると、前衛の砦のように張り出たかたち。宮城県ならず、岩手県に属するのが奇異に思えてくる。もう半分以上、宮城県に足をつっこんでいる。県境の町とはこういうものなのかもしれない。
「花泉」。名はウソはいわない。花はボタンにシャクヤク。花泉のボタン園は東北最大級。306種5千本の花が、一斉に咲き乱れるとか。5~6月にボタン祭りが行われ、多くの人が見物に訪れるのだろう。
また、参勤交代のルートでもあり、9月には大名行列の催し。セットで町の売りもの。
花泉の人は餅が大好き。餅をこねて、長もち。岩手、宮城、両県のもちつもたれつの関係を維持してきた。
ただ、今日は暑い。うだるような暑さ。ガソリンスタンドでは、給油中、あまりの暑さにクルマの外に出た。耐えられない。
(01年)
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再び岩手県に入る。岩手に呼び戻された感じだ。花泉町が、出っ張った形であるので、こうなるのだろう。
いやいや金成町がくい込みすぎているからだ。争うのはよそう。元は同じ伊達藩領。
ちなみに国道4号線は、こんな回り道をしない。宮城に入ったらそのまま真っ直ぐ、進んで行く。もうかなり遠ざかっている。再び会うのは、仙台市。それまで、ずっと、ない。
かわって、国道342号線が登場した。一関街道と呼ばれる、この道は、一関へ抜ける間に一つ峠越え。区切りよく、ここで県境にすればよかったのではないかと思う。なぜ花泉町は岩手に属したのか。、、、不思議だ。
囲いの中に、牛がいた。一瞬、目があった。優しそうな顔。自分たちの運命を知らず。
(01年)
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さてさて、金成とはどういう町か、、、。??駅周辺は寂しいような、、。
それもそのはず、ここは金成町のはじっこ。町の中心ではない。玄関駅は、くりはら田園鉄道の沢辺駅。天下?の東北本線の駅だからといって、中心とは限らない。
でも、だからといって、ここが完全なる非主流派に転落したわけではない。歴史的に見れば、こちらの方が断然重要な所であった。
旧有壁(ありかべ)本陣。今でいう旅館街。奥州街道の宿場町であった。松前、八戸、盛岡の各藩主が参勤交代で江戸にのぼる際は、ここで宿泊した。また、江戸から派遣された幕閣の重臣も度々寝泊りしたという。ビジネスホテル、大はやりだったのだ。
しかし、今や単なる通過点。沢辺との間には、山あり距離あり、大いに「壁」がある。
(01年)
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岩手県一関市、人口6万。県境の町で、駅名には「ノ」の文字がつく。
奥州藤原氏の郷・平泉には新幹線がのびていないため、ここが県外観光客の下車駅代わりとなっているようだ。「中尊寺」「毛越寺」の看板が目につく。
西にむかうと、磐井川沿いに厳美渓。秋、紅葉が美しい。
一関は田村氏の城下町。福島県三春の戦国大名・田村氏は、秀吉の小田原参陣に遅れ、所領を没収。伊達傘下に下った。(1590年)
江戸前期、世にいう伊達騒動(1660年頃)で、首謀者の伊達宗勝は一関を本拠地としており、事件後に失脚。一関をとりあげられている。
代わって岩沼にいた田村家が、この地に入った。一関藩3万石の成立。坂上田村麻呂を先祖にもつ名門、田村家は、ここに復活した。ちなみに伊達政宗の正室・愛姫は田村家の出だが、家臣の反対を押し切ってまで娘を嫁がせた当主の田村清顕は先見の明がある。
いずれ岩手県にありながら、仙台・宮城県の色合いの強い町である。
(97年)
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「夏草や つわものどもが 夢のあと」。元禄期の俳人・松尾芭蕉(1644~1694)は、そう詠んだ。平泉は中世武士の栄えた町である。
時は平安、東北地方を巻き込んだ、後三年の役(1083~87年)後、清原清衡(1056~1128)はこの地を拠点に支配地を拡大。藤原の姓を名乗り、以来、基衡(1090~1158)、秀衡(1122~1187)の代を通じて北の王者として君臨する。
奥州産の金を背景に、朝廷および源氏平氏も手出しができなかった。北の強大国家である。中尊寺金色堂は、その栄華の粋を極めたものだ。まばゆい金でつくられており、現在藤原三代のミイラを安置している。
また、浄土庭園づくりの毛越寺も、当時を偲ばせる。池には当時を再現した船があった。秀衡の代には無量光院も建立。
奥州藤原氏、三代目の秀衡は、この地で源義経(1159~1189)を育て、中央に輩出した。やがて兄・頼朝(1147~1199)に追われて来るが、快く匿っている。幕府、何するものぞ、との気概が伝わってくる。
しかし、子の泰衡(1155~1189)は、父の遺訓にそむき、義経を殺す。英雄・義経と豪傑・弁慶は、ついに高館にて露となった。その泰衡も、すぐに幕府に討たれ、ここに奥州藤原氏は滅ぶ。
コマ送りのように歴史は進んだが、今はもう過ぎた後の事。当時の権力をうかがい知ることはない。すべては夢か幻か。かすかに中世武士たちの、足音が聞こえてくる。
もう一度。「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」。
(97年)
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肉質日本一、ともいわれるこの牛肉、豊かな風土が生んだ結果といえよう。北上川のゆったりと流れた、懐の広い大地。
牛肉あっての前沢。牛に感謝、と前沢牛まつり。そして珍しい牛の「博物館」もあるとか。研究に研究を重ねている。
しかし、食われる牛の立場として考えたら、、、、可愛そうだ。「牛肉」として出されれば、モノ。「牛」ならば生命の通う動物。美味そうにほおばる私に、それを語る資格はないが、、、やはり何かしら心にひっかかる。偽善者ではあるが、、。
前沢は牛肉以外でも、ひとめぼれ、ササニシキ、といった米作にも力を入れている。また、工業団地もあり、充実しているようだ。
失われた牛の命は、形を変えて、生きつづけている。
(01年)
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水沢市と前沢町のちょうど境界線に駅がある。陸中折居(りくちゅうおりい)。
中に入って驚いた。駅長室が対局戦の真っ最中。「囲碁大会」の貼り紙。ここは駅ではないのか?いやいやこれこそ駅。地域の人々との交流。地域と共にある。
黒石寺への下車駅。北上川むこうの、この古刹、729年行基が開基、旧正月には裸参りの蘇民祭が行われる。はじめは「東光山薬師寺」と言ったが、黒い石(蛇紋岩)が出るため、「黒石寺」となったとか。
アテルイ率いる蝦夷と、官軍がぶつかるこの時代、寺はどう眺めていたのだろうか。
黒石?黒と白の石。道理で駅で「囲碁」をしていたわけだ。納得。
西の胆沢町には尿前(しとまえ)渓谷。ただし、かなり距離がある。
黒い石は白い石、白い石は黒い石。逆もまた、真であるような気がした。
(01年)
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胆沢城以来、北の要所。坂上田村麻呂の熱い思いか、人材の宝庫だ。岩手は英雄を多数世に送り出してきたが、ここはとりわけすごい。
江戸後期、蘭学者・高野長英(1804~1850)。向学心旺盛な彼は、藩を出て、長崎、シーボルトの鳴滝塾に学ぶ。医者として活動する一方、渡辺崋山らと尚歯会を結成。主著「夢物語」では、幕府の外交姿勢を強く非難している。このため、捕まり、牢に入れられる。(蛮社の獄)。
国際情勢に明るいことが、かえって災いしたのか。脱獄をしたが、結局また捕らえられ、死ぬ。時代が彼を必要としなかったのか、時代が合わなかったのか。
初代・満鉄総裁で、東京市長として関東大震災(1923年)後の復興に取り組んだ、後藤新平(1857~1929)。首都東京の復旧ではなく、再建と位置づけた功労。
海軍大臣として、ジュネーブ条約調印、1932年から34年にかけて首相をつとめた、斎藤実(1858~1936)。軍人であり、原敬に次いで岩手県二人目の首相であり、2・26事件(1936年)で暗殺された。
政治家といえば、小沢一郎氏も、この水沢が出身地である。
人口は6万だが、パワーは100万人並み。まだまだ逸材が眠っていそうな、そんなアーケード街のある、町であった。
(97年)
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伊達藩北限の町、金ヶ崎。藩境の守りとして、金ヶ崎城に防備がしかれた。現在、家中屋敷が残っているという。
古く、蝦夷征伐、前九年の役、後三年の役の戦場となった。江戸時代になっても「軍事」と切り離せない位置を占めたようだ。
東には北上川。そして西むこうには駒ケ岳国定公園。森林がひろがり、自然豊か。金ヶ崎温泉に、千貴石森公園では、アウトドアを楽しめる。
こうくると、歴史と自然の町のように見受けられるが、町中央には金ヶ崎工業団地がでんとあり、工業の側面もあるのだ。文武両道のまさしく伊達の盾、である。
胆沢川を渡ると、水沢市。胆沢城あり。平安初期の802年、蝦夷討伐のため、坂上田村麻呂が築いた城。しかし、、、歳月”城”を待たず。大地にただ石碑あるのみ。
(01年)
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金ヶ崎町に入った直後の駅である。ここより南が旧伊達藩の支配地。岩手県南には南部氏の支配は及んでいなかったのだ。しかし、今は同じ岩手県。たいして変わりはないが。
そばには北上川。県立六原農場の広大な敷地が西にあるが、この駅からはけっこうな距離がある。行くともなれば、覚悟しておいた方がよさそうだ。
北上駅で急な夕だちにあい、追い立てられるようにして、伊達領内入りした。さっきの雨はうそのようにすっかり止んでいる。前回、岩出山で受けた奇襲、今回も続きなのか。
でも、伊達藩に入った途端、止んだということは、今回は歓迎されているのかもしれない。
アスファルトの焦げた、強烈なにおいが鼻をつく。
(01年)
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北上市は人口8万人。北上川の水運を基にした、県内最大の工業都市だ。秋田県側の江釣子村、和賀町を合併して、一躍、岩手県第二の都市となった。
町の名でわかるとおり、ここは北上川の河岸。眺めがとてもいい。ちょうど川は岩手県の中央部にさしかかり、悠久の流れと、田園のマッチした景色を生み出している。
川向こうの展勝地公園には、多くの詩人が絶賛の作品を残している。岩手、さらには東北を代表する「風景」といっていいだろう。
民俗芸能、「鬼剣舞」の里でもある。その独特な踊りは人を魅了する。
北上線の接続駅。秋田新幹線の建設当時、東京までのアクセスはこの駅だった。秋田自動車道も、ここで東北自動車道と合流する。交通の要衝に近い。
まさに川の流れ、それを司っているかのようだ。
川のほとりに立って、イーハトーブの香りをあおぎたい。
(96年)
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岩手県花巻市、人口7万。岩手の生んだ、牧歌的詩人、宮沢賢治(1896~1933)の生誕地だ。
1996年5月の連休。生誕100周年にあわせて、友人と訪れた。当日は各種イベントが盛りだくさんだった。駅前にはすでに人だかり。タレントの姿もある。
賢治は童話作家として知られるが、一方で農業育成家でもある。昭和初期、岩手はひどい冷害に見舞われ、農村は窮乏していた。詩、永訣の朝「きょうのうちに とおくへいってしまう わたしのいもうとよ みぞれがふって おもてはへんにあかるいのだ(あめゆじゅとてけんじゃ)」
死にゆく妹を看取った様子。ただそれだけではなく、貧しい中、悲しみに対してなすすべもない悔しさと、嘆きがこめられている。、、、詩は人の心をうつ。それは今日にいたっても変わらない。
市内には、宮沢賢治記念館やイギリス海岸がある。童話の中の題材となった場所がある。西には、花巻温泉。詩人の高村光太郎が一時、滞在していて、その高村記念館も存在する。
イーハトーブの里、花巻である。
(96年)
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岩手県の空の玄関、花巻空港への最寄り駅。駅名は「二枚橋」だったが、空港が近いことから、そのまま「花巻空港」に。
しかし、滑走路は見えても、ロビーまでは遠い。、、歩くのは難。
岩手県でただ一つの空港。県都、盛岡市から離れたところにある。不便では?と思うが、新幹線があるから、いいのかも。
宮沢賢治の花巻だから、空港があるのかも。「銀河鉄道の夜」とはいっても、鉄道は宙を飛んだ。では、正式には「銀河空港の夜」なのかもしれない。ロマンチックではある。
イーハトーブの里に降り立つ飛行機。出迎える稲穂の妖精たち。夜空には、散りばめた星空。北上川にふりそそぐ流星群と虫の鳴き声、、。
飛行機に乗って、遠い異世界にはばたいてみたい。空港のある駅である。
(00年)
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そんな群がった川の橋を渡れば、仙北町駅。ホーム脇にセメント工場。川をはさんで盛岡駅とはそれほど離れてはいない。明治橋からはぱっと視界が開けて、岩手山の雄姿をおがめる。真下には盛岡の町並み。絵になるアングル。盛岡といえば、この風景を思い出すだろう。
駅付近に原敬記念館。「平民宰相」原敬(1856~1921)の生家といわれる。岩手県初の首相。米騒動(1918年)の後、組閣。本格的な政党内閣であったが、東京駅で刺殺された。「一山」の号をもち、東北人をばかにしていた中央を見かえしてやるぞ、という気骨のある政治家であったといえよう。
彼に続いて岩手は三人も首相を出すわけだが、そのさきがけとなった原敬はまさしく岩手の英雄。岩手山の賜物である。
(95年)
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東北新幹線、北の終着駅。東北線、田沢湖線、山田線、そして花輪線の始発列車が集う、岩手一のターミナル。
南部藩20万石の城下町。南部鉄、南部せんべい、立ち食いそば、ちゃぐちゃぐ馬っコ、冷麺、なんでもある。夏には、さんさ踊りで賑わう。
市の東部を北上川。南西部を雫石川が、ほぼ町を包み込むような格好で流れており、それから分かれた支流が街中を寸断しているようにうつる。実際、市内は橋が多い。駅の真正面、北上川にかけられた開雲橋から岩手山の雄姿が見られる。ずっと南部の城下町を見守り続けてきたのだろう。
盛岡城跡は、現在は公園。「三日月の丸くなるまで南部領」とまでいわしめた名将、南部信直(1546~1599)の子、利直(1576~1632)が築城。関ヶ原の合戦(1600年)後に町を形成した。昔は不来方(こずかた)城と呼ばれ、青春時代の石川啄木が「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」と詠んだ。
戊辰戦争(1868年)では最後の砦。この城が落ちて、戦争が終結した。反政府とみなされ、その名誉回復のため、辛い思いをしたようだ。それは城の天守閣跡の碑を見ればわかる。堀外の石割桜は、町をあらわすシンボル。
原敬(1856~1921)、米内光政(1880~1948)の両元首相。国連の事務次長の新渡戸稲造(1862~1933)を輩出した。南部魂は今も脈々と受け継がれている。
岩手の人材の豊富さを知る思いだ。
(95年)
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