2009年9月23日 (水)

「毛利は残った」を読む

 ちょっと前に買った、毛利輝元関連の本、「毛利は残った」(近衛龍春・著)を読んでいる。

 これまでの輝元関連の本と読み比べると、この作品が一番、真実?に近いような気がして面白くもある。要は、彼は特に明確な意思はなかった、というところがミソ。

 彼にとって、天下の形成だろうが、元就の遺訓だろうが、そんなのはどうでもよく、ただ成り行き上、立場上?、そうならざるを得なかった、というところ。、、なんだかサラリーマンの悲哀のようでいて、悲しくも、同情する。私は大いに共感するのだ。

 彼にとって、全てが重い負担だったのではないか?、、両川、というシステムが崩壊し、それに替わるものが見当たらず、かといって、これまでお飾りで通してきた(そのシステムで成り立ってきたので)彼に、いざ決断せよ、といったって、所詮は無理があるのでは??

 そのあたりを現代企業に例えたりして、いかにも!という感じの作品だ。

 彼の優柔不断が問題なのではなくて、今までそうであったし、それでうまく機能してきたから、そうなのであって、そこのところが、(今までの作品を見る限り)欠如していたように思える。まあもっとも先代が築いたシステムが終わり、新たに独自色を出すチャンスでもあったわけだが、、。

 私も同じような思いなのだから、その気持ち、よくわかる。能力のない者は、とかく劣等感にさいなまされ、何かにすがろうとするものだから。(だからといって、できない事を人に求め、それを責め、人のせいにするのはだめですよ!)

 彼もこんな大規模な藩(会社)のリーダーではなく、小さな大名だったら、そつなくこなしたかもしれない。、、そう思うとき、歴史って、皮肉だな、と思うのだ。

 実際はどうだったのだろう??、、彼は元就や叔父の両川を、尊敬はする一方、ひがみ、ねたんで、むしろ敬遠する気持ちの方が強かったのではないか??、、そのあたりを描いた小説があまりに少なく、逆にそれが興味をそそられるわけではあるが。

 この小説、タイトル「毛利輝元」にして欲しかったのだが。、、またしても私の願いはかなわなかった。

 放映中の大河ドラマ「天地人」では、中尾彬演じる毛利輝元、けっこうなタヌキ親父風に描いているが、おやっ?と思ってしまった。もしかしたら、彼もけっこう強かだったのかもしれない。、、であるから、なんだかんだで藩は残った。

 関ヶ原の優柔不断云々で叩くのなら、その後の大坂の役の「佐野道可事件」は説明がつかない。、、あれは彼の脚本だったのか??まるで別人だ。、、別に黒幕がいるのではないか??、、そう思ってしまう。

 彼の評価はやはり、わからない。、、だんだんと謎めいてきた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木)

転封と存続の危機

 天下を二分した関ヶ原の合戦は、東軍・徳川方の勝利に終わった。勝者による裁きは世を問わず、西軍についた諸将には、厳しい沙汰が下った。

 吉川広家による領土保全の密約をとりつけた、西国の毛利家も、例外ではなかった。

 大坂・木津、毛利邸にて

 「は、話が、違うではござらぬか!」

 「、、、。」

 「わしと内府との盟約では、毛利領120万余石、保全成るべし、と。ここに起請文もござる!!よく見られよ!内府の印鑑も押されておる。、、それが、それが、全領土、召し上げとは!!、、人を馬鹿にするにも程がござろう!」

 「、、ふむ、ふむ、、。それはそれは、、。ちとその文書を見せてもらおうかの、、。、、うーむ、これはこれは、まずいのう。、、これは上様のお目通しになったものではござらぬの、、。」

 「!?」

 「よく見られい。、、そなた、交渉にあたったのは、我が譜代の臣、本多忠勝、榊原康政、ならびに外様の黒田長政であろう。、、彼等の印はあっても、これは、上様の直々の印鑑ではおらぬ、、、。おそらく、彼等が論功を焦り、勝手に、文書に印を押したのであろう、、。」

 「な、なんと、、。」

 「それに、、これなる文書をご存知かな、、、。」

 「!?」

 「これは輝元殿直筆の、檄文じゃ。おそらく合戦の直前に諸大名にあてたものであろう。ほれ、ここにこうして印も押されておる。動かぬ証拠じゃ。、、不戦の密約、は、笑止!こうして打倒徳川の旗幟を鮮明にし、大坂城に入城したは、動かぬ事実であろう。事実、本軍は動かずとも、別働隊が本国、広島より四国、果ては九州まで兵を進めたは、どう言い訳を取り繕うつもりじゃ!!」

 「こ、これは、、、したり、、。」

 「大体が虫のいい話なのじゃ。、、我ら徳川追討の兵を募り、その盟主に担がれ、本戦に参戦せずから、領土保全だの、、は!笑わせてくれようぞ!、、そなたら、それでも戦国の世を生きた男か!!」

 「む、、、。」

 「本来なら、輝元殿、ならびに秀元殿には、即時切腹の沙汰が下りるところでござった。」

 「、、、、」

 「が、多年上様と輝元殿は、御実懇の間柄。豊臣政権における五大老の席次の折、義兄弟の契りを交わした経緯もある、、、。父子の命まではとるには及ばずとの、温情措置がとられた、、、。」

 「、、じゃが、それまでじゃ。領土は、そっくりいただくことになろうのう。」

 「本多殿!それでは、それでは、わしの、この働きは、いかがされるのか!あまりではのうござらぬか!!確かに、口約束ではあったが、、、盟約はいただいたのだ!」

 「上様は広家殿の此度の働き、ことに評価しておられる。」

 「!?」

 「で、あるから、広家殿には、西国筋に一、二ヶ国、賜るようとのお達しだ。」

 「、、わしに、領土など不要でござる!是非に、是非に、その二ヶ国、輝元殿に進呈いたしたい!!」

 「!これは、また、なぜ、、、。」

 「わしはあくまでも家臣。宗家に尽くすは、忠義であり、筋であり申す!」

 「ははは、、、。広家殿、その心意気は買おう。じゃがのう、大名など、所詮は鉢植えよ。本来の領土などはあってないようなもの。この日の本が、全て徳川の支配に列せられる今、諸大名の土の入れ替えなど、恒常的となろうに!、、、なぜにそうまでして、宗家に尽くすのじゃ!」

 「、、これはわしの意地でござる。」

 「ほ。意地、とな。」

 「此度の合戦の全ての責任は、わしにある、、。わしが全ての責をおう。、、、この身、朽ちても構わぬ。、、、本多殿!急ぎ、江戸に、、。内府に直談判して参る!どうか、ご同道願いたい!」

 「ふむ、、。そこまで言われるのなら、、。」

 「頼もう!」

 ここからわしの戦いが始まった。わしの首をかけた、生きるか死ぬかの戦いだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月13日 (金)

開城悲話

 豊臣秀吉による日本統一より、十年。既に太閤・秀吉は亡く、天下は混沌とした情勢となっていた。この間隙をつき、東の徳川家康が挙兵。覇権の掌握を図らんとす。対抗する西の石田三成は、西国の雄・毛利輝元を大将に担ぎ、美濃・関ヶ原の地で決戦を試みた。が、勝敗は兵家の常。無常なるかな、西軍は敗れた。総大将、毛利輝元の立て篭もる大坂城にもその悲報がしらされた。

 「お味方、大敗北でありますっ!」

 「むうっ。」

 「そ、そんな馬鹿な、、、。」

 「我が軍10万、敵方は7万、、、。数はこちらが上じゃ。、、それが、短時間で決したというのか、、、。」

 「、、、、、、、。」

 「全ては金吾(小早川秀秋)の裏切りがなせる事よ!あの小童めが!!目の前に餌をぶらさげられて、むざむざと欲にかられたわい!、、、これだから実戦経験の乏しい臆病者は困るというものよ、、、。」

 「おうよ!福島や加藤、浅野ら諸将もふぬけたものよ!、、内府(家康)に扇動され、見事に我らを裏切ってくれおったわ。あの忘恩の輩、逆賊の徒めらが!!今頃金吾ともども内府に尾を振り、猫撫で声で祝い酒でも飲んでおろうが!」

 「ははは!聞いた話では、あやつ等、所領を10万から20万ほど加増するそうな。あの吝嗇な内府がのう、、。大盤振る舞いしたものよ。」

 「所詮は餌につられる醜い奴等よ!、、それが見抜けなんだ我等も愚かじゃったが、、。」

 「殿下!いかがなされます!敵方は勢いに乗り、大津より速やかにこの大坂に攻め寄せて参りましょう!、、こちらには無傷の4万の兵が残されております。いかに内府といえど、引き連れているのは所詮は恩賞目当ての烏合の衆、、。また、遠路の行軍で平坦はのびきっているでございましょう!」

 「左様。しかもこの大坂城は、亡き豊太閤が築かれた、一大要塞でござる。いかな野戦得意の内府といえど、この城郭に立て篭もれば、一年いや二年三年はもちこたえるでござろう。、、、手をこまねいた敵からは内応者が出、四分五裂するは必定!」

 「それにこの城には、秀頼君もおりもうす。豊家の城にやすやすと弓をひくほど、奴等も篭絡してはおるまいに。」

 「殿下!籠城を!、、ご決断を!!」

 「う、、、ううむ、、、。じゃがのう、皆の意見はそうとしても、、ここは潔く開城した方が得策と思われる。」

 「は!なぜでござるか!!」

 「確かに籠城いたせば、多少は持ち応えよう。じゃがな、ここには大勢の大名の人質がおる。彼らを置いた大名たちの心理的影響はどうでるか、、、。また、幼君および淀の方から明確なるお墨付きを得ておらぬ。難しいであろう。、、それに、、、(吉川)広家から内府への密約がある、、、。」

 「は!?、、密約?」

 「一族の吉川広家が申すには、内府より、此度の毛利家の処置は是非に及ばず。中国筋120万余石の所領は、安堵いたす、とな。」

 「はあ!?、、そんな取り決めが!、、いつから!」

 「ははは!!これは面白い!、、殿下、騙されてはなりませぬぞ!広家、かの者こそ、裏切り者。戦場では何の槍働きもせず、、。いつから左様な暗躍を、、。大方これで手柄を売ったつもりで、大きな顔をしてのさばろうという魂胆でござろう!」

 「は!(毛利)秀元殿、そこもとがそれを言える立場ではござるまい。、、そなたこそ、戦場で何をなされていたのやら、、、。大軍を擁しながら、高見の見物。巷では「宰相殿の空弁当」とか嘲られているそうですぞ!」

 「これは(立花)宗茂殿!言葉が過ぎましょうぞ!!」

 「大体が、此度の合戦、勝てる戦でござった。それが、、そなたといい、金吾といい、毛利一族の結束の無さが敗北を招いた、、、。そうではござらぬか!?」

 「お、おのれぇ!!言わせておけばっ!!」

 「や、やめんか、、二人とも、、、。」

 「そ、そうじゃ。ここは争っている場ではない!」

 「、、殿下!いかがいたします!」

 「、、余の考えに、いささかの曇りもない。約を信じ、開城いたそう。」

 「、、、、、、。」

 「思えば、亡き洞春公(毛利元就)が言われた、天下を望むべからず、この教えを守るべきであったかのう、、、。余には重過ぎる役目であったか。天下の堅城、引き渡す。敗軍の将、去るべし。、、亡き叔父御にも申し訳が立たない。思えば九州の陣にて(吉川)元春殿、朝鮮役の最中にて、(小早川)隆景殿、、、要の両川を失い、そして此度の結果を招いた。、、、これ全て、余の不徳のいたすところである。」

 「殿、、。無念です、、、。」

 「言うな、、。もう終えたことじゃ。全将兵に伝えよ、これより三日以内に城を明け渡す。」

 「ははっ!」

 「、、、これも定めなのじゃ。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月10日 (水)

白藪椿 毛利輝元の密謀 を読む

 最近出版された毛利輝元関連の書籍、「白藪椿」(毛利輝元の密謀)・平川弥太郎著を購入、読んでいる。

 題名だけ見ると、何を描いているのかとんと見当もつかないが、要は副題が主だ。当ブログでも紹介した、かの佐野道可事件(大坂の陣における、毛利家の際どい賭け)における内幕、人間模様。

 史料を丹念に追っていって、小説というより、歴史書に近い。なので、多少読みづらいところがあった。が、当時の状況を巧みに解説しているようで、なかなかの出来だと思う。

 しかしながら、本作品の主人公は、「密命」を受けた側の佐野道可(本名・内藤元盛)である。彼の生い立ち、その家の成り立ち等が主であって、「密命」を下した、当の輝元については、脇役であるように見えてならない。(もっとも、この「密命」が主であるのだから、準主人公といっても差し支えないわけだが、、、。)

 この事件は実際あったのだろうか?あったのだから、これほど賑わすのだろうが、あの幕藩体制下で、よくもまあ、こんな大胆な事ができたものだと思う。件の長州藩の正月の問答も然り。

 「優柔不断」だの「三代目お坊ちゃん大名」だの、散々な言われような毛利輝元だが、その彼をして、この大胆な計略!は私でなくても、驚くだろう。本当に同一人物だったのだろうか??と思うのだ。、、それが、私をこの武将を虜にさせる一因でもあるのだが。

 こうは思えないだろうか。これが彼の真の姿なのだ、と。いわゆる両川体制は彼を、傀儡にせざるを得なかった。(不可抗力に近いものだった。)中国地方の土着の豪族の連合体でできた毛利家の、宿命でもあった。それが関ヶ原の敗戦により、良くも悪くも整理縮小された。、、彼がはじめて独断で大なたを振るえる環境が出来上がったわけだ。

 と、どんどん想像が膨らみ、構想が浮かんでくる。これほどまでに謎に満ち、なおかつ魅力に富んだ武将を、なぜ一握りの学者か作家しか取り扱わないのだろう?不思議だ。今回の作品も、輝元関連、ということで手にとってみたが、やはり彼が主人公で、という流れではなかった。

 せめて奥州の地から天下を望んだ、伊達政宗くらいの扱いで、ホットな研究、議論が行われてもいいのでは?と思うのだが。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月12日 (金)

毛利輝元フィギュアを購入

 先日、群馬の高崎を訪れ、そこで毛利輝元のフィギュアを購入しました。

 ちょっとレアもの。高崎駅近くの某人形店にて、朝9時開店を待って、入りました。在庫があるかな、と不安でしたが、ありました!といっても、かなり小さい縦30センチくらいの小さな小さな人形ですが、、。(それでも輝元ファンで、コレクション集めに躍起な私には大喜びです。)

 少し前、週間で本屋などの店頭に並べられてあった、コレクションシリーズ。(例えば、ロボットとかオールドカーなどがあったと思う)その戦国武将版。正式名称、「戦国覇王」。週間デル・プラドコレクション、№55、毛利輝元、です。信長や武田信玄といった超有名武将だったら、売り切れが早いか、今でも別のフィギュア商品があるかもしれませんが。、、という意味では、やはりレア価値でしょう。

 税込み1840円の買い物は、しかし、この場に来たことを成功だったと思わせるものでした。

 箱を開けると、赤い羽織と鎧武者姿の輝元卿。手をかざし、遠くを見つめるしぐさ。背中には毛利の家紋、一文字三ツ星がでかでかと!同封の解説書には、「両川(吉川、小早川)に支えられた激情の人」とタイトル書きされてあります。また、一つコレクションが増えて、よかった、よかった。

 次は輝元の刀(レプリカ)が欲しいんですが。が、高い!4万くらいします!が、あるんです。、、こういうのがあるっていうことは、私みたいな人が他にもいるってことなんでしょうか??、、それはさておき、、、。欲しいな、、。輝元卿の刀を枕にならべて、戦国武将の起居生活を再現したいくらい。、、刀か、、それこそ、レア価値。

 ちなみにこの高崎の人形屋さんは、他にも三国志や西洋の騎士などの大人形をも取り扱っております。ショーウィンドウごしにのぞけば、圧巻。よく作るよ、、。しかし、値段が高い!(当たり前か)、、五月人形や雛人形も置いてありました。輝元卿が奥から「出馬」してくる間、出されたお茶をすすっておりました。

 だから、今回、群馬に行ったというわけではありません。あくまでも旅の一部です。

 でも、だから、群馬に行ったというわけでもあります。これが目的の一つでもあったというわけでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月14日 (木)

決戦の日は迫る

 風雲急を告げる、、。安芸・広島城内。

 「、、大軍が終結しておる。、、この動きは、最早とめようもあるまいの、、。」

 「左様。この日の本の、東西、各大名衆が続々と兵をまとめておりまする。これも内府(徳川家康)の日頃の所業が招いた結末といえましょう。、、大乱の予兆がします。」

 「大坂の秀頼君のお立場が気になり申す。、、当家は亡き太閤殿下から多大な御恩を賜った由。、、当家としては、諸大名にさきがけ、早々と旗幟鮮明にせねばなりますまい。豊家の命運は当家が握っているといっても過言はありますまい。」

 「、、ま、まあ、待て、、。余としては無用なる戦は避けたいのじゃ。事の発端は内府と治部(石田三成)の仲違いにある。、、それにうまくのせされておるだけの事。我等としてはあくまでも豊家の大老としての立場を守り、極力中立の方向でいこうではないか。」

 「殿、この期に及んで、何を言われます!事の起こりは、全て内府の悪行から出たもの。いわば自業自得であります。亡き太閤殿下の遺訓をむざと破り、自らをして天下人たらんとする、その不心得!、、断じて許すわけには参りませぬ。」

 「西国最大の大名である、我らの動向は、世間の耳目が注目するところ。、、そのような日和見が通用するとは、甘うござるぞ!、、当家200万石(吉川、小早川領を含む)が決起いたせば、さしもの関東も手も足も出ますまい。」

 「、、亡き洞春公(毛利元就)は、こう言われた。、、決して天下を望むな。その所領を守れ、と。、、遺訓に背くことになりはしまいか??」

 「今更、そのような、、。時代が変わったのです!好むと好まざるに関わらず、当家としてはその所領に合わせた態度が求められておるのです。」

 「これは天下をかけた戦いではありませぬ。、、我等の生存をかけた戦いです。、、であるから、遺訓には沿う形とはなります。」

 「、、しかし、内府とは、兄弟の契りを結んでおる。、、互いに違背しないことを約し。」

 「同じような文言がありながら、なぜ上杉攻めをなさいました!?よくお考えあそばせ。それは時間稼ぎの何ものでもありませぬ。、、我らも、上杉と同様の結末がありましょう。」

 「左様。幸い、この油の高いご時世、遠方の会津より当地まで、幾里もあり。出費も嵩むでありましょう。、、その間、こちらも戦力を整えば、勝機は見えてまいります。」

 「しかし、、、。たとえ兵力で優っていても、士気がのう、、。戦上手な叔父御はなく、合戦の修羅場の経験に乏しい我らでは、百戦錬磨の内府に立ち向かえるのか??、、それに家中に統一見解がない。、、まとまっていないのだ。、、その盲点を突かれると苦しいのでは、、。家中の不協和音は、等しく、勝敗の帰趨を決すだろう。、、何か、大義名分でもあればのう、、、。」

 「殿、そのような心配はご無用でござる、、。拙僧、先般、上坂の折、奉行衆より、このような誓詞を仰せつかりました、、。これでござる、、、。」

 「!?」

 「こ、これは、、!」

 「左様。増田長盛以下、奉行衆連盟の、誓詞でござる。、、、内府討伐の命が記されております。、、これを公式文書といわずして、何でござるか?」

 「う、、ううむ、、。」

 「これで、ともかく、当家は、名をとったわけであるか、、。」

 「既に根回しは進んでおり申す。、、殿は、大坂城にあって、秀頼君の側におられませ。後は、我らが一軍を率い、殿に天下を馳走いたす所存。」

 「殿!ご決断を!!」

 「う、、。(かくなる上はいた仕方なし)、、すぐに兵を集めよ、、。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月26日 (木)

輝元卿の上杉・米沢訪問記

 (仮説)新緑の6月、天下第二の実力者、毛利輝元は北国の雄・上杉景勝を訪れ、その領内をつぶさに見学してまわった。

 これは太閤・豊臣秀吉逝去後、台頭する徳川家康を牽制する目的があったためか、はては単なる物見遊山的な意味合いがあったのか、真偽の程はいかん。

 無事、領国に帰還した輝元卿は上機嫌そのものだった。

 「さすがは武門の上杉家、謙信公以来の弓馬の道を尊び、その家風、その町割り、人情風情、見事であったぞ。」

 「さようでございましたか。、、されば来年のNHKの大河ドラマの主人公は、景勝公の臣、直江兼続殿と聞き及びましたが。」

 「うむうむ。あの「愛」の前立の将か。智謀に秀でた逸材と聞いておる。、、さもありなん。町のあちこちに「毘」の旗と、大河ドラマの宣伝を兼ねて「天地人」ののぼりがあったぞ。今であの盛り上がりようなら、来年はもっとであろう。町の活性化は羨ましい。、、余も売り子につられて、笹野一刀彫を買ってしまったぐらいだ。」

 「おお、あのアジサイで有名な笹野観音付近で作られている郷土民芸でござるか。」

 「そう、鳩ぽっぽみたいなものだった。余は目利きがきかぬので、巧いのかどうかわからぬが。、、彫刻技術としては、秀でているのだろう。」

 「泊まった宿はどうでありましたか?」

 「うむ、うむ。景勝殿が特別に手配してくれた郷土料理の数々。、、殊に米沢牛はなかなか美味であったぞ。川を望む、眺望の素晴らしい温泉宿であった。、、日頃の疲れが吹き飛ぶわい。湯は少し熱いかもしれないが、時間がたつにつれ、じわっとくる、この感触。各種効能があると聞く。特に汗をかいた後の、温泉の湯は格別である。、、翌朝の露天風呂もまた、新緑の中の日光を浴びながら、、、最高であった。」

 「その小野川温泉郷は、古くからの温泉街と聞きまするが。」

 「古の小野小町の伝説に彩られた温泉街である。10軒をこす温泉宿がひしめき、湯のにおいがして、、。足湯もあり、また飲むための湯が湧き出てもいる。そして、沢の音、、。まさに郊外の温泉街。」

 「小野小町!?出羽の雄勝ではありますまいか?」

 「各地に伝説があり、真偽の程がつかめぬらしい。そういえば福島県にもある。(小野町)」

 「ほお、、。面白いですな。」

 「しかし、だ。なんといっても蛍!あれほどの数の蛍は、ここ最近、見たことがない。夜、河川敷を歩き、辺り一面に浮遊する蛍の光、光。、、なんとも幻想的な光景よ。水がきれいだから、なのだろう。、、いいものを見させてもらった。、、一瞬、一瞬を大切に、そして精一杯に生きる蛍。、、なんと儚いものであることか。、、一寸の虫であるが、あれだけの光を、我らに見せて。、、余もこの蛍のようなものであろう。、、今の繁栄が一瞬のものであるのやも知れぬ。」

 「そのような弱気な事をいわれますな。、、蛍は一瞬一瞬を完全燃焼しているのです。殿もそれを見習い、その時、その時を、精一杯生きられませ。」

 「う、うむうむ。、、考えさせられるわい。」

 「まずは無事に帰還、終着至極に存じあげます。」

 「うーむ。ただ、領内がのう、、。高速道路、未だ未整備な箇所が残り、、。帰路、月山湯殿山をかすめ、庄内に出たのだが、まだ道路が部分開通なようだのう。、、いつになったら全面開通することやら。これは往路の最上、村山地方でもそうだったが。」

 「領内整備を早急に進めますれば、また何やらきな臭い政治に利用されましょう。内府(家康)が何やらおかしな動きを、、。」

 「一寸先は闇よな。、、我らは蛍にもなれぬのか。口惜しい限りだわい。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月18日 (金)

傾国の烙印を読む

 「傾国の烙印」(文芸社、池田平太郎著)を再読した。

 毛利輝元関連の本では、わりと最近出たもので、通史としては、一番読みごたえのある作品である。輝元の本、といえば、まずこれが出てくるのではないか。

 輝元の業績、その歩みが歴史的検証を踏まえて、丹念に描かれてある。現代におきかえたわかり易い解説も大きい。ただ題名が、、。「毛利輝元」でよかったのでは。「毛利輝元 (副題)傾国の烙印」とした方がよりわかり易かったのではないかと思うのだ。

 というのも、そのままずばり「毛利輝元」の本がないもので、、。なぜだろう?一番よくできたこの作品が、それを名乗らなかったのは、ちと惜しい気がするのだ。

 まあ、一輝元ファンのため息というもので。、、そのうち出るはずだ。、、なければ私が、と、いつの日になることやら、、。

 ただ題名にあるとおり、輝元は傾国の烙印を押されてしまった。それはなぜか、勝った側の都合、徳川史観に他ならない。、、西軍側の恨みのはけ口であるのかも。彼がもっとしっかりしていれば、こうはならなかった、といったところか。

 そのあたりのことも、若干輝元の弁護を引き受ける形で解説されているのも、画期的だ。、、彼は必ずしも暗愚の棟梁ではなかったのだ、と。世の定説(覆したい!)に対して、一定の反論を試みたことで、これは大きな足がかりとなる、そう感じた。

 と、いうのも、それだけ輝元に対する批評が大きいわけで、、。これはだいぶ荒療治しなければ、回復の見込みはないだろう。、、石田三成が近年再評価されているのに比べ、相変わらずの低評価。変わらないのはなぜ?(光栄の歴史ゲーム、信長の野望に出てくる輝元の能力データの低さが物語る、、。これが世間の目、か?)

 それはなぜか。わかった。毛利輝元を研究する者が少ないからだ!元就や吉川、小早川を興味、研究する者は多い。、、それに比べ、あまりな扱いではないか??

 そのマイナスの原因となった、関ヶ原の合戦における、西軍総大将の役目。「引き受けなければよかった」などと言う史家もいるが、五奉行の連署を見せられたら、決起するだろう、普通に考えて。約束違反をして勝手な動きをしたのは、徳川家康であって、彼は同格の五大老の一人として、なんら後ろめたい行動はとっていない。

 いや、むしろ戦いそのものに消極的だったのではないか、と思えるのだ。(それはそうだろう。家康が豊臣政権に反旗を翻しただけなのだから)

 また、彼は優柔不断で、故に毛利家中の分裂を招いた、と言われているが、これもおかしくて、元々毛利は諸豪族の盟主。設立過程からして、強権は発令できない下地があった。、、さらに僅か11才で当主となった輝元には、両川体制が強力にバックアップしていたものの、かえって、それが足かせとなり、トラウマともなっていたのでは?と邪推するのだ。

 関ヶ原後の長州藩時代の輝元の、強権を駆使した領国支配を見れば、一目瞭然だ。輝元批判派は、こういう事実をなぜ無視するのだろう。

 また、吉川広家の内応だが、これも承知済みだったのではないか??つまり「保険」であったわけだ。まあ、それが意に反して、うまく機能していなかった面もあるが、、。とにかく、小早川秀秋の裏切り、僅か半日での東軍勝利、これは(全国の諸大名どこもそうだが)予期せぬことであったに違いない。、、計算が狂ったのは、輝元もそうだったはずだ。

 歴史にイフはないが、もし西軍勝利であったら、彼の地位は飛躍、全国最大の大名となっていたはずだ。そう思うと、、、輝元への興味は尽きない。

 これほど謎に満ち、かつ、これほど面白い研究材料を与えてくれる人物はいない。なのに、なぜ輝元に関する書籍は少ないのだろう??、、そこがまた、不思議だ。

 一、毛利輝元ファンとして、大いに考えさせられる事ではある。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月25日 (火)

新天地と新境地

 1589年、毛利輝元居城、吉田郡山城内。

 「九州平定の儀、おめでとうござりまする!」

 「東国、西国合わせ、日の本46余州、尽く従いました。これで我ら、毛利家紋・一文字三ツ星の軍旗に靡かぬは、南方の琉球諸島のみとなりましたな!」

 「う、うむ、うむ。、、されど、九州の陣は、いささか長滞陣であった、、。その間、叔父御(吉川元春)を失った、、、。さらに、元長(元春の子)まで、、、。悔いの残る戦陣であった。」

 「、、、これも天命でありましょう。、、、あの天魔王・信長でさえ、己の最期は読めなかったのであります。、、元春殿、それに元長殿は、立派な働きでありました。殿!殿は我ら毛利一門の総帥であらせられます。お気の弱いことは申せられますな!」

 「左様。殊に肥後の乱鎮圧の一件は、太閤殿下も事の他お悦びの様子。我らの武威を諸侯に示す、格好の時期であったといえましょう。、、南方へ向かう軍船の用意は着々と進んでおります。天下平定まで、あと一息でありますぞ!」

 「うむ、うむ。じゃがのう、、、最近は去る者多く、失う事が多く、なような気がしてならんのじゃ。共に喜びを分かち合い、共に苦しみを分かち合い、して、その先に何が待っているのじゃ、、??何か空虚な、ぼんやりとしたものだけがぶらさがっているように見える。、、そうは思わんか?」

 「殿!お気を確かにお持ちくだされ!!我ら戦国の世を生きる者に、そのような情けは無用でござる。、、生き馬の目を抜くこのご時世、、、現実を直視してくだされ。」

 「左様。太閤の治世とはいえ、その基盤は薄く、決して一枚岩ではありませぬ。いつ転ぶ事やら、、、。天下大乱の兆しは、もうすぐそこまできておりますぞ!、、、忍びの報告では、内府(徳川家康)の元には、何やら不穏な動きが、、、。我らも安穏としておられぬのです。」

 「そうであるからこそ、ここで地場固めをしなくてはなりますまい。、、急務なのです。」

 「うーぬ。言われてみれば、このところ、少し気が滅入っていたかもしれぬ。、、心機一転、新天地で新境地を、、、か。この手狭な吉田より、かねてからの計画通り、五箇庄(後の広島市)に居城を移すとしようか。、、三角州の平野で、統治には都合が良い。」

 「それはよい考えです。早速手筈に!」

 「ま、それは、その方らに任す。よきように計らえ。、、、さておき、わしはもう眠うなった、、、。先に休ませてもらうぞ。、、、大儀であった、、。下がってよろしい。」

 「はっ!」

 「ははっ!!」

 (、、、殿に危機感はない。このままでは、、、。わしがなんとかするしかあるまい。機先を制し、内府に渡りをつけるか、、、。それしかあるまいの、、。)

 (、、、この男、一体何を企んでおる、、、。殿に取り入り、家中を掌握する腹づもりか、、??主導権は渡さんぞ。、、そうだ、治部(石田三成)に接触を試みるか、、。)

 その夜、二人の屋敷から、それぞれ忍びが放たれた、、、。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 6日 (木)

秀吉の接待 毛利輝元上洛日記

 最近出版された本を購入、読んだ。

 「秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く」二木謙一著、学研新書。

 1588年、西の雄、毛利輝元が初めて上洛、天下人・秀吉に謁見するまでのリポート。実際の文書を基に、詳しく解説をしている、秀逸な書である。

 その日、その日の日程、動きが詳しく描かれている。謁見、宴会、催し、忙しいのだな、と感心させられた。当時の武将も一政治家。公務は多忙であったわけだ。(その都度、座る位置が変わったり、着ていく服装も変えたり、かなりめまぐるしく、忙しい)

 原文の文書を読んでも、さっぱり意味がわからないが、こうして直訳した解説つきの本だと、わかり易くていい。、、、当時の大名の行動が手に取るようにわかった。

 毛利と秀吉とは、信長時代に対峙して以来。まして、顔をあわすとなると、初めて。しかも臣従を誓ってからの事である。、、、敵地にのりこむ!という事で、警戒する毛利家中。不安を抱えながら船出する輝元一行。しかし、着いてからの秀吉側の歓迎、接待ぶりは見事で、たちまち毛利氏の心を魅了していく、、、。(その過程が描かれている)

 帰国する彼らの表情は晴れやかであった。出てくる時とは比べようもないくらい。これをもってしても、秀吉の諸大名に対する人心掌握の術の巧みさを推し量れよう、というもの。

 そうであるからこそ、秀吉は天下をとれたのであるが、、、。武断な信長と違うやり方。多くをそこから学んだに違いない。脱帽。

 ここで重要なのは、毛利輝元は、秀吉のこの待遇に心を許し、忠誠を誓う一方、次第に中央政権に傾倒していった、という見方。これは面白いな、と思った。五大老(今でいうところの五常任理事国)に指名された頃には、有頂天になっていただろう。関ヶ原の不覚の一因は、この頃から出来上がっていたのだ。

 西日本最大の大名とはいえ、所詮は地方の戦域の覇者に過ぎない。そこで彼は、初めて「天下」というものに触れ、大きく目を開くことになったのではないか?(若干飛躍するが)彼は秀吉に父を見たのではないだろうか?輝元の実父、隆元は、彼が僅か10才の時に謎の死を迎える。だから、ほとんど記憶にないだろう。(影響も薄いと思われる)

 そして心ならずも、大毛利家の当主となり、祖父の元就、両川(吉川、小早川の叔父)が家中を取りしきり、居づらかったに違いない。マインドコントロールもあったのでは?彼らの力を認めながらも、鬱陶しいと思える存在。発言できない自己の立場と能力、、、。そんな日々。わかるような気がする。

 この「毛利輝元上洛日記」に出てくる輝元を見るにつけ、気配り上手で、かなり社交的な輝元像が記されている。輝元の、生の肉声が聞くことができた、そんな新鮮な感動だ。

 決して凡庸な三代目、ではなかった、そう確信させる一冊である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

毛利・親鷲子鷹孫鳶

 毛利輝元関連の本として、森本繁著「毛利・親鷲子鷹孫鳶」を読んだ。

 職場の方の尽力により、絶版となっていたところを、入手できた。感謝しきり。

 さて、内容は、やはり毛利元就(親鷲)があまりにも偉大で、代がおりてくるにつれ、レベルが落ちてくる、というもの。著者は政治史が専門で、その政治的な考察力はさすが、とは思った。

 が、どうも、この見方は一般的なステレオタイプなような気がしてならない。確かに元就が創業者で、あれだけ領土を拡大したのは、すごいことだろう。まさに鷲の飛翔である。そして子の鷹たちの活躍。(この場合の鷹は、隆元ではなく、吉川元春、小早川隆景の両川であるようだ。)ここまでがまず、許せる範囲であるようだ。

 で、孫鳶。鳶とはひどい、とは思う。が、言われているのは、輝元というより、どちらかというと、吉川広家、小早川秀秋らしい。関ヶ原の本番で裏切った、秀秋は言われても仕方がないかな、とは思うが、元々が毛利家の人ではない。多少ずれるような気もする。

 吉川広家の場合は、何の勝算もなく、家康に近づいた、というような流れだ。が、彼のおかげ?で取り潰されるべきはずの毛利家が残ったのだから、相殺されるような気もするのだが、、、。

 ここで注目されるべきは、吉川広家は戦後、毛利家を残すため、あえて輝元を貶め、馬鹿殿にすることにより、幕府の警戒を解いた、というもの。そして乱の首謀者は安国寺恵ケイ一人であり、宗家とは何の関係もない、とした事。これが、輝元の名声を落す原因にもなったということである。

 なかなか、面白い見方だな、と思った。、、全ては計略だったのだ。戦に負けたのは問題だが、その後の身のふり方を見れば、決して鳶ではない、と思うのだが。

 もっと詳しく見ると、毛利家は元々一枚岩ではなかった。中国地方に割拠する諸豪族の集合体、その盟主に過ぎない。そもそも統一がとれていなかった。「百万一心」だの「三矢の教え」だの、結束に拘るのは、つまりは、それが脆いから、という逆説の見方もできるわけだ。

 元就はうまくやっていたではないか!という意見もあるだろう。が、当時と信長が進出してきた頃では時代が違う。信長は兵農分離を推し進め、統一された組織を背景に領土拡大に乗り出した。諸豪族の一致を基に拡げられた毛利家とは、その設立母体からして、違うのだ。、、、だから、信長が出てきてから、その脆さがもろに出た。、、到底長期戦に耐えうる体力はそこに、なかったのだ。

 もっといえば、元就の意向(威光?)をバックにした両川体制が、長くあるにつけ、輝元はじめ宗家の力を削ぎ、何の意見も持たない飾り物にしたてあげた、という見方もできる。、、、輝元は両川体制に感謝していたのだろうか??、、疎ましく思っていたのでは?疑問が生じる。

 様々な憶測を呼び覚ます、そんな一冊であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月17日 (木)

毛利輝元卿伝

 私の手元には一冊の分厚い本がある。

 「毛利輝元卿伝」。最近、マツノ書店(山口県周南市)より復刻された、全700ページを超える資料集。(初版は1982年)

 限定数が記載されている。それくらい、レア価値。輝元を研究するなら、これ以上ないという程の内容だ。ただ、記述は昔の文体で、読みづらい。、、小説タッチな文章だったら、なおよかったのだが。

 市内の書店に頼んだら、断られた。それもそのはず、直販でしか取り扱えないとの返答。マツノ書店に直接申し込んで、先月仕入れた。銀行振り込み。1万5000円もする。高い。、、それくらい、価値があるということでもあるが。

 毛利元就が死去して、輝元が正真正銘の当主となる(後見役の元就がいなくなったという意味で)頃から、描かれている。その死(3代将軍家光の1625年)までの長い歴史が丹念に記載されている。全体の8分の1くらいしか読み進めていない。それくらい、厚い。

 資料的価値の充分にある図書だと思う。ただ、この文体が、、、。この歴史書が書かれたのは太平洋戦争前後というから、うなずけるのだが。

 そのままタイトルすばり、「毛利輝元」の本は(勿論小説風)出てこないのだろうか??私の知る限り、輝元関連の書籍は、この「毛利輝元卿伝」と「傾国の烙印」(既に手元にあり)「毛利親鷲子鷹孫鳶」「漫画広島の歴史第二巻・毛利輝元」くらいなはず。

 後ろ二冊は既に絶版との事。(入手困難か、、、。)先々月、広島の吉田郡山(元就、輝元の居城跡)を訪れた際、そこの吉田歴史民俗資料館にて、件の「漫画広島の歴史」が控え室にあり、読んでみた。売りものではないので、買うことはできなかったが、こうなってくると、「売って欲しい!」と職員に話しかけてみるべきだった。

 ま、何でもそうだが、数が少ないから「希少価値」ってことでもあるのだが。

 もし今後も彼を主人公とした作品が出ないなら、私が「毛利輝元」を出すべきなのかも。その為には日々、こうして研究(と、いえる程のものではないとは思うが)をしないとならないのだろう。

  その場合、勿論、巷間言われているような負のイメージは排除する。平時なれば名君であったと。若干、平和主義者な面もあったと。戦国の世を、形はどうあれ、生き延びた、と。、、そうした視点から描いていけたら、と思う。

 (宿敵・織田信長との対決は、中央政権との覇権をかけた戦いとして位置づけ、リアルかつ忠実に再現したい!)

 今日、大書店・ジュンク堂にて、ある本を見つけた。「毛利隆元」(金谷俊則著・中央公論事業出版)隆元(輝元の父、元就の子)はあるのか!輝元はないのに!!感動やら納得できないやら、とにかく即購入。

 表紙は隆元の肖像画。こういった本がいい。と、構想を練る。内容は、文献の紹介も多く、なかなか深い。(完全な小説タッチで構わないと思うが、、、)父・元就と弟の吉川、小早川に挟まれ、苦悩な当主であったろう。、、しかも父より早く、非業な死を迎える。

 隆元があるなら、いずれ輝元の本も出るだろう。ま、そうなったとしても、私は私で独自に研究、努力して出版にこぎつけたら、、、なんて、夢のような構想を膨らませている次第だ。

 そんな千里の道に一歩を投げかける、この書籍「毛利輝元卿伝」。後はどう、自分の中で消化し、活用していくか、だ。、、読み進めていきたい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月 6日 (火)

九州平定戦の発令

 本能寺の変(1582年)後、天下人の道をまっすぐに進んだのは、あの羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった。毛利家は秀吉に臣従し、その力を背景に領土をひろげた。

 そして、5年後。西国平定のための召集がかかる。

 吉田郡山城(毛利家の本拠地)

 「太閤殿下から島津(鹿児島の戦国大名)討伐の命が下った。我等に先鋒を務めよ、とな。」

 「島津は強兵です。九州随一の勢力。厳しい戦いとなりましょう。」

 「太閤殿下の命とあらば、致し方あるまい。すぐに出兵の準備じゃ。」

 「はっ!」

 「して、出撃路はいかようになろうか?」

 「はっ。かように考えます。まず速やかに関門海峡を押し渡り、九州第一の要塞、門司を落します。然る後、博多の港を押さえ、西進。肥前(佐賀、長崎)の竜造寺領の奪回につとめます。鍋島がうまく陽動すると思われるので、いとたやすいでしょう。」

 「うむ、うむ。」

 「して、東に戻り、豊後(大分県)の大友領の奪回です。(島津により)滅亡寸前なため、急がなくてはならぬかもしれません。」

 「ん!?大友家は我が家とは仇敵じゃぞ。、、、さように肩入れする必要は、、、。」

 「殿!この際、私情は禁物です。確かに洞春公(毛利元就)以来、大友は我等の敵ではありました。が、今の敵は島津です。、、、太閤の敵は我等の敵!おかれた立場をお考え下さい。」

 「んんん、、、。そ、そうであったな。これは九州平定戦。ただの局地戦とは一味も二味も違う。、、、太閤殿下の天下取りの戦なのじゃ、、、。」

 「、、、豊後の次は阿蘇をぬけ、肥後(熊本県)に入ります。このあたりから、本格的な戦いとなるでありましょう。そしていよいよ、敵の本拠地、薩摩(鹿児島県)です。諸城を抜いた島津はここで力尽きるでありましょう、、、。」

 「そう、うまくいくといいのだがな、、、。」

 「最終的には日向(宮崎県)に追うことになりましょう。、、、長期戦が予想されます。兵糧補給線、確かに確保せねばなりますまい。」

 「、、、いずれ未知なる領土であるからな、、、。」

 「いかにも。」

 「島津義久も運のない男よ、、、。今少し早ければ、九州統一を完全に果たせたものを、、、。相手が、、、大きすぎたのじゃ。」

 「これは他人事ではありませんぞ、殿!目先にとらわれず、大局的な判断で、ご決断してくだされませ!」

 「う、ううむ、、。(わかった、わかった。うるさいな)」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月 4日 (日)

運命の分岐路

 猿掛山、毛利輝元本陣。

 「信長が、あの信長が、死んだっ、、、、、!。」

 「し、信じられぬ、、、、。」

 「明智に、、、本能寺??、、、隙を見せたか、、、。」

 「、、、、、、、。」

 「天罰じゃ!天罰が下ったのじゃあっ!!先の叡山焼き討ちをはじめとした、数々の暴虐のかぎり!天はやはり許さなかったのじゃ!!」

 「おうよっ!家臣に裏切られるということ自体、最早それまでだったのじゃ!!」

 「我が毛利は一枚岩ぞっ!ひるむ事はなしっ。」

 「追撃じゃ!あの小賢しい猿(秀吉)めの首を槍先にひっさげ、京の都に毛利の旗(一文字三ツ星)を翻すのじゃ!!」

 「おうよっ!天下に号令するは今ぞっ!」

 「、、、あいや、待たれい、、、、。」

 「!!」

 「??」

 「、、、追い討ちは罷りならん。、、、ここは動かぬ方がええ。落ち着くのじゃ。」

 「こは、異な事を言われる、(小早川)隆景殿、、、。いかような考えか、、。」

 「謀才長けた秀吉の事、我等の進撃に備え、既に手は打ってあるであろう。そのいい例に、我が方にこの変事、伝わるのが遅すぎた、、、。この時点で、我が方の負けである。」

 「、、、、、、」

 「この戦いで我が軍の消耗は激しすぎる。降伏した国人衆の離反も甚だしい。加えて背後に豊後の大友、山陰の尼子残党と、虎視眈々と我が領土を狙っておる。いつ寝首をかかれるか、わからぬのだ、、、。」

 「、、、、、、」

 「さらに一度秀吉と誓詞を交わし、和睦を結んだ以上、履行せぬは、天下に毛利は信義なし、と見なされよう。、、、このような状態で例え天下をとったところで、どれだけ人心が掌握できるものか、、。」

 「、、、、、」

 「洞春公(毛利元就)は言われた。天下を望むまじ、と。目前の大敵は去った。今は自重する時ぞ。天下の形勢を見守ろうではないか。、、、それからでも遅くはない。」

 「し、しかし、それでは、我らは千載一遇の機を逃す事になるのではないか??」

 「信長が死に、混乱した京と明智など、物の数ではない。」

 「殿!殿はどのようにお考えであられますか!?」

 「ん?ううむ、、、、。皆の気持ちはようわかる、、、。が、余は、、、やはり叔父上の意見に賛同じゃ。」

 「!?」

 「、、、今の軍の状況を見れば、この先大戦をもちこたえられるだけの体力は、ない。ここは耐えるのじゃ。秀吉に恩を売る。大恩ぞ。これは後々はねかえってくる。よい方向にな。」

 「し、しかし、、、、。」

 「引き揚げじゃ!!吉田(郡山)へ帰るぞ。元々挑まれた戦じゃ。留まるもなし、進むもなし。、、、和睦をしたのじゃ。」

 「は、はっ!」

 「引き揚げだ!!撤収!」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 8日 (土)

上方に異変アリ

 猿掛山、毛利輝元本陣。

 「清水宗治が切腹は、果たして是非もなき事であったろうか、、。」

 「見事な最期でありました、、、。水攻めに耐え忍び、兵糧底をつき、数ヶ月、、。舟上にての、、。両軍見守る中、、。武士の、武士の鑑であります!、、、清水殿は、真の誉れ高き毛利武者であられました!!」

 「、、、惜しい男を失くした、、、。忠義の士を失のうた、、、、。」

 「殿!、、今は堪忍です。、、、耐え忍べば、また、宗治の死も無駄にはなりますまい。」

 「左様であります!我が毛利には、、、まだ、織田方と雌雄を決する程、余力はございませぬ。前方に秀吉が3万、後方に信長の6万、さらに山陰道を明智が2万、、、。対して我が軍主力が5万、、、。総力戦ともなれば補給が、、、。」

 「さらに家臣団の統制がとれておりませぬ。、、、山陰の兵は降伏した尼子の者が多く、日が浅い為、忠誠心に隙ができておりましょう、、。」

 「集結した国人衆の諸兵も、続々国元へ散会しておる由。、、、戦時前の状態に戻りつつあります。、、、我ら譜代の一門衆のみで、食い止めるしかのうござる、、。」

 「ううむ、、、。兵が足りぬ、、、。兵が足りぬのじゃ、、。この広き領土を固めきれぬ。、、早急に版図を拡張しすぎたかもしれぬ。」

 「殿!安国寺が僧侶が申す通りでござる。、、、時を稼ぐのです。、、時あれば、また勝機がつかめましょう。、、、宗治の首と、二カ国割譲など、大事の為ならば、小事と思し召され。」

 「う、、、ううむ、、、。」

 「殿!洞春公(毛利元就)以来、我が軍には、精鋭が控えております。なんのこれしき、織田が兵馬など、物の数ではございますまい!」

 「う、、そうであったな、、。ま、いずれにしても、和議が成った以上、この地を引き払わねばなるまい。、、善後策は、郡山(吉田郡山城 輝元の居城)に帰還してからにするとしよう。、、、皆の者、ご苦労であった!」

 「ははぁ!」

 「安国寺はようやった、、。何にしても、この難しき交渉、見事取りまとめた。、、、じゃが、宗治が、、、心残りよのう、、、。」

 「、、、、、。」

 「殿!!」

 「ん!?」

 「殿!!一、一大事でござる!!」

 「なんじゃ!」

 「何事じゃ!!」

 「殿、殿、、、、信長が、、、。」

 「!??」

 「織田信長、去る二日未明、京・本能寺にて、家臣明智光秀の急襲に遭い、自刃!!」

 「!!!!!」

 「な、なにぃいい!!」

 「そは、真かぁ!!」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 3日 (金)

水攻めの苦悩

 猿掛山、毛利輝元本陣、、、。

 「殿っ!」

 「ん?」

 「あ、あれを!!」

 「!?」

 「こ、、、、これは、、、。??高松城が水の中に孤立しておる、、!なんたることっ!!猿(秀吉)め、なんのまやかしぞ、、、。」

 「おそらくは秀吉が腹心、黒田如水めの知略でござろう。、、、一夜にしての水城、敵ながら天晴れかな、、、。が、さて、これにより、我が軍、手も足も出ず、どうしたものか、、、。」

 「殿!ここで膠着しておるうちに、我が方の形成、悪うなること必定!忍びの者の報せでは、信長が本隊、およそ6万!!京を出発し、当地へと向かうとの由。、、、大軍まさにこの備中の地に罷り越し、士気盛んなること、打ち破り難し、、、。」

 「うぬうっ、、。聞きしにも勝る信長が兵馬かな、、、。天下の兵、集結す。時きたれり。いざ雌雄を決すべし!!」

 「我が方の兵も集結しつつあります。山陰、山陽の諸豪族、国人衆を集めました、、、。が、何分、相手は大軍。、、、どこまで持ちこたえることやら、、、。」

 「さらに台風が近づいております。人出にどう影響するでありましょうか。、、、今期は海は涼しく、その周辺環境は荒れ、まさにこうした不測事態との兼ね合いでありましょう。」

 「春先の大勝が、ここにきて、陰りを見せてきたと思われます。、、、敵は尼子の残党ではなく、天下の織田と変わったのです。、、、我が方の隙を見せれば、それこそ敵のどつぼとはまるでありましょう、、、。」

 「うぬぬぬぬ、、、、。では、どうすればいいのじゃ、、、。」

 「持久戦に持ち込むしかのうござる。、、、吉川、小早川の諸勢と連携を保ち、この尾根を死守し、後は高松城の水がひくのを待つが上策。、、、秀吉が軍兵、遠路行軍、厭戦感漂い、水がひくのと同様、退くでありましょう、、、。」

 「、、、城にたてこもる、清水宗治が郎党、いかほど持ちこたえようか、、、。我等の焦りは、彼らの命運でもある、、、。兵糧底を尽きる時、決着が着くといえよう、、、。」

 「、、、清水殿には、耐えてもらうしかのうござる、、、、。」

 「我らは大軍といえど、何もできぬのか!!こうして指をくわえながら、、、。」

 「殿!安国寺が僧を秀吉の陣に遣わし、少しでも時間稼ぎをしてみては、、、??」

 「それしか我が毛利に道はのうござる!」

 「う、ううむ、、、、。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 5日 (火)

二の丸様誘拐の衝撃

 古川薫著「毛利一族」では、毛利輝元の一面について、掘り下げて描かれてある。

 その中の項に「二の丸様誘拐」とある。副題がすごい。毛利輝元の犯罪、である。

 警察の事情聴取から400年前の時代に話はとび、その時、何がおき、何が行われたのか、毛利氏の意外な一面が明らかとなる。面白い形式だが、反面、衝撃でもある。

 なんと、長州藩初代藩主、秀就は、側室二の丸の方の子であり、そもそもこの人物、輝元が見初め、家臣の妻から奪い取ったものであるそうだ。

 倫理観念の薄い当時、しかも戦国乱世の頃だから、ありえることではあるが、ちょっとイメージダウンであることは否めない。もっとも、そんなことを言ったら、彼の上司である豊臣秀吉などは、あちこちの大名の妻にちょっかいを出し、各将、翻弄されていたといういきさつもあるのだが、、、。

 狙われた方にしてはたまったものではない。お家の一大事である。

 長州の場合、家臣杉氏は、それで謀殺され、散々な目にあった。現代の警察が輝元をクロとし、やり玉にあげている。小説はそこから、グロテスクな展開に至るのだが、そもそもこうしたスタイルにしたてあげるのは、輝元に対するマイナスイメージから??他の武将だったら、英雄色を好む(英雄以外でも色を好む)とか言って、なんらかの救済措置に出るのだが、情けないというか、悲しくもある。

 とかく優柔不断、凡庸な太守というイメージの強い輝元の、意外な、激しい一面を見た思いだ。こうした人間臭い話を発見できたことも、またよかった。

 ちなみに「毛利一族」では、輝元に関する章は、この誘拐事件と、佐野道可事件の二本のみ。いずれも、意外で、あまり知られていない一面であり、興味深い。

 詳しい話は本書に譲るが、それにしても衝撃的な事実である。こういう乱暴な話から、次代の後継者が誕生したとは、、、。そもそも恋愛とか、理性の及ばない世界の話などは、まさしくきれい事の通じるものではないのだろう。

 一生縁のないであろう、私からすれば、大きな驚きをもって受け止められる話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 5日 (月)

佐野道可事件の成り行き

 1614年、すでに天下を掌握した徳川家康は全国の諸大名に命令一下、豊臣征伐の出動命令を下す。

 大坂城のみとなった、豊臣家に勝利の可能性などゼロに等しく、諸大名は先を争って、かけつけた。

 かつて豊臣政権当時、五大老として家康と同格だった輝元の毛利家も、当然幕府側として参戦する。が、ここにもうひとつの伏線があって、ひそかに家臣のひとりを脱藩浪人として、大坂方に潜り込ませていたのだ。

 内藤元盛、変名・佐野道可、そのひとである。武具、食糧を渡され、言い含まれ、密かに大坂城に入った。なんと大胆な戦略であったことか。輝元の心情として、「どっちにも味方する」というもの。勿論、こんなことをしたのは、ここぐらいのものだろう。

 輝元が謀略めいたことをするのは、これがはじめてのことかもしれない。とかく優柔不断に見られがちな彼にしては大胆な行動である。(全国の諸大名は家康の目が怖く、また疑われないよう、過剰なまでに阿っていた、のに、、、)

 が、慣れないことをすれば、ぼろが出るものだ。このことは、すぐに幕府の知れ渡ることとなった。やばい!!やばいなんてものではない。事実が明るみに出れば、即刻お家断絶、首が飛ぶ事は必定!!慌てふためく輝元はじめ毛利首脳陣。

 事は極秘に進められていた(はずだった)。内藤(佐野道可)は、大坂落城と運命を共にしてくれるものだと、半ば期待めいたものを抱いていたようだ。それが、生きていたのだ。これが甘かった。幕府に捕まり、厳しい詮議だてをされる。

 毛利首脳陣のあわてふためきは目に見えるようである。特に言いだしっぺの輝元としては、どうであったろうか。「下手な策略するんでなかった、、。」愚痴っていたかもしれない。

 が、内藤(佐野道可)は立派な武士であった。ついに口を割らず、これは自身の判断で行ったことであると、毛利家の無関係を強調し、従容と切腹して果てた。毛利は内藤に感謝しなければならないだろう。幕府はそれ以上は問題視せず、これにより「佐野道可事件」は一件落着したかに見えた。

 しかし、輝元は、毛利家首脳陣は、安心できなかった。「罠ではないか、、、?」疑ってしまった。あまりにもそっけなかったからだ、あの幕府が、、、。「こんなんで済むわけがないだろう、、、。」考えるだけで夜も眠れなかった。

 ここで、はい、終わり、と、何事もなかったかのように振舞えば、かえって疑われるというもの。それを幕府は狙っているのではないか?いつ、どんな言いがかりを受けるとも限らない、、、。不安が増大し、いても立ってもいられなくなった、、、。(この気持ち、わかるような気がする。不安が強いと、ついいらざる事を考え、妄想がふくらむというもの)

 「内藤の息子二人、切腹させよ!」。証拠隠滅もここまでくると異常ともいえる。内藤(佐野道可)の息子二人、事件とは全く無関係であったのに関わらず、とばっちりを受けることとなった。時代は強権的な徳川初期の治世。びくつく諸侯の内部は、正にこんな状況であった、、。

 自らよかれと思って行った輝元の謀略、その結末がまた、お粗末なものだった。彼の評価を落とす、またひとつの事件ともいえよう。が、それがまた、この戦国を生き抜いた武将の、凡庸ながらもしたたかな一面ともいえようか。

 ただ、この一連の動きの中の、輝元はじめ首脳陣の心のうち、わからないでもない。心臓は高鳴り、口は渇き、焦り、不安となる、、、。人の顔色を必要以上に伺わなくてはならない、、、。私も似たような性格なので、わかるのだ、、、。同情(しては内藤元盛一族があわれなのだが)するに値する。

 時代がそうだったのだ。そう締めくくりたい。よく解釈すれば。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月27日 (火)

その後の毛利氏

 古川薫著「毛利一族」を読んでいる。

 この本には、関ヶ原の戦いの後、防長二国の太守に格下げされた毛利氏の様子が描かれている。

 何しろ中国地方8カ国の大大名だった毛利家だ。それがわずか二国だけ(現在の山口県)の領土となったのだから、忸怩たる思いだったに違いない。後に慣例となる「今年こそ時(江戸を攻める)ではありませぬか」「いやいやまだその時ではない」という、藩主と家臣との問答も、ここから起こる。その遺恨は根深く、逆にそれが原動力となって、260年後の明治維新の回転力となった。

 もっともその(領土が減ったこと)全ての責任を、当時の当主である輝元一人に押し付けるのはおかしいと思うが、彼が優柔不断な性格だったのは、事実なようで、それがまたこの人物をひどく人間臭いものにさせている。それがまた、興味のそそられることなのだ。

 彼は愚痴っぽい。「こんなことならいっそ領土を全て幕府に返そうか、、、。」「吉川が独断であんなことをしなければ、、、。」多分側近にも普通に漏らしていたのだろう。おおよそトップに立つ人の発言ではない。頼りない、と思われるだろう。彼が低い評価になっているのは、実はこういうところではないかと思うのだ。

 彼が年若で家督を継がなくてはいけなくなった時、「自分はまだ若く、またその能力がない」と言って、元就に泣きついたともいわれる。また、秘密を人に口外する癖があり、元就に怒られ、二度と軽はずみな口は慎む、と誓約書を書かされたそうだ。

 元就はそんな輝元を「情けない」と思いつつ、二人の優秀な叔父をつけ、よく補佐するように手配した。

 このエピソードを聞いて、(多分に作られている、意図的に貶めているとも見えるが)、どう思うであろうか?私はすごく面白い!と感じた。まるで現代を生きる私たちにも通じる、特に私自身と重なる部分が多いではないか!!と思うのだ。

 まるで漫画の主人公ような(と、いったら語弊があるかも)、人間臭い性格!おっとりしていて弱弱しいイメージ!それが大国・毛利の当主であること。さらに、あの殺伐とした強面の武将たちばかりの戦国の世!このキャラクターは輝きを持つ。

 だから、彼があっさり西軍の総大将を引き受けたり、戦況が思わしくなくなると、途端に弱腰になったり、と、おおよそ武将らしからぬ?行動は、いかにも三代目坊ちゃん大名といわれる所以だったりするわけだが、そこがまた、微笑ましくていいではないか。

 謀略に長けた将や、恩義を捨て、寄らば大樹と裏切った将よりもはるかにまし。いや、同列に論じることすら、あってはならない。大義に従った輝元に親しみを感じるのだ。

 さて、この「毛利一族」の「陰謀の山河」の項では、そんな輝元のイメージが覆るような事が描かれている。関ヶ原から14年後の大坂の陣の時。時は既に徳川の時代。僅かに命脈を保っている豊臣家を完全に潰そうと、幕府は軍を出動させる。

 毛利家にも出動命令が下る。さて、どうしたものか。やせてもかれても旧主の家だ。自身もそこでは五大老の職務を任された。心情的にはどうしても、、、、。(このあたりが私が毛利にひかれるところの一つ。何の躊躇もなく、体制に従う家は世渡り上手だが、大嫌い!!)と、いっても今は徳川の世。逆らえまい。はて、困ったものだ、、、。

 弱り果てた輝元が出した決断、それは「どっちにも味方する」!彼のこれまでのやり方には見られない、大胆な行動にうってでる。すなわち、家臣のうちの一人を脱藩浪人と偽り、武器食糧を持たせて、密かに大坂方に入れる、というもの。勿論、毛利家は幕府に従う。

 きわどいやり方!ばれれば当然、終わりだ。本当か!?と耳を疑うような話。ここが輝元に惹かれるところかもしれない。このギャップがいい。優柔不断な人物は時に大胆な行動に走る、こともある。

 「過去は過去なんだから、もう知らないよ」なんていう薄情な人物などではない。恩にはどこまでも恩で返し、少なからず、体制に抵抗を示す。武将、というより人として鑑のやり方ではないか。

 ただ、この結果と、その評価がまた、、、、。この事についてはまた次回。

 ちなみに本書著者の古川氏は、山口県出身で地元新聞の記者を経て、作家に。91年、「漂泊者のアリア」で直木賞受賞。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 7日 (水)

毛利輝元を祭る神社

 06年4月、私は山口県・萩市を旅した。

 山陰経由、島根、山口とまわった。長州藩の都・萩と、毛利輝元関連の史跡を巡り、その墓参をすませた。(関連トピック、毛利輝元、歴史、旅・地域を参照)

 この旅のレポートはまだ書きかけなため、おいおい明らかにしていきたいと思う。

 萩の町の外れ、海へ突き出た小半島のようなところに、城があった。全国を旅してきて、こんな妙な城跡は初めてだった。まさに「背水の陣」である。衝撃的だった。こんな城もあるのか。これは輝元の屈折した心理を表すもの、という見方をする史家もいるが、そんな気もする。(参照、歴史を。指月山 萩城跡)

 この城跡の中に、神社があった。志都岐山神社という。これは毛利家、特に輝元を祭った神社だそうだ。アーチ状の万歳橋という小橋を渡り、石段を登る。社殿はその先の木立に囲まれてあったのだが、毛利家の紋所、あの一文字に下三ツ星が見えてきた時は、正直、感動した。

 Img031_2 しかも、毛利家の創始者の元就ではなく、輝元主宰の社である。これも珍しい。賽銭箱に銭を投げ入れた。手を合わせる。この城、さらには萩市の創始者は、輝元なのである。そうした経緯から、この地にこうした神社が設けられたのだろう。世間の評価はどうあれ、萩市民(もっといえば山口県民)にとっては、偉大なる先輩なのだろう。こうした空気は実際、現地に行ってみなければわからない。

 戦国時代、中国地方最大の大名にして、織田信長包囲網の盟主。豊臣政権五大老の一人。関ヶ原の合戦、西軍の総大将。長州藩の藩祖、、、。この華々しい経歴と反比例するかのような、影の薄さと、世間の低評価。これが私を、この武将にひきこんだ一因でもあるのだ。

 それが魅力でもある。武将ではあるが、いわゆる体育会系ではなかったのだろう。温厚で、ゆったりとした性格であり、それが優柔不断にうつった。私には、この人物、真面目だが、不器用、そう思える。彼は職務を忠実に守り、忠節を曲げず、敗れたりとはいえど、家は残り、したたかに生き延びた。

 Img032_2 諸事完璧にしあげる人は、尊敬されるが、親しみはもてない。少しくらい欠点というか、ぬけているくらいが、人として、好感を持つ。だから私は、知将は好きになれないのだ。また、体育会系の猛将も、あまりに一直線で、がさつなところが好感をもてない。周囲に対する気配り、職務に対する責任、そんな要素が重なったとき、えてして優柔不断にうつったりするのかもしれない。そう考えるとき、輝元は、損な役割を担わせられたな、と感じるのだ。

 勿論、一家、一門を取り仕切る身としては、強いリーダーシップが必要なのだろう。輝元には、それが欠けていたと言わざるを得ない。しかし、このお人好しともいえる、人間くささはなんなのだろう?ここに私は他の武将には見られない、「武将らしくない」要素を発見したのだ。

 何はともあれ、戦国の三英傑をはじめとする、強豪相手に戦い、よく生き残ったものだと思う。弱者が強者に立ち向かっていくとは、並大抵の努力ではない。そこはもっと評価されてもいいと思う。

 萩は美しい町だった。ここに来て、よかったと思った。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 2日 (金)

信長包囲網の盟主

 織田信長の野望に最後まで抵抗し、その包囲網の盟主たる役目を担ったのは、西国一の大名である、毛利輝元である。

 武田信玄、上杉謙信ら名将亡き後、残る「抵抗勢力」は毛利と他数家に絞られた。

 天下の帰趨が信長に傾き、多くの大名が降伏、滅亡となる中、反信長の旗の下、劣勢ではあるが、よく持ちこたえたのである。

 私が輝元に惹かれる理由は正にここにある。

 私は、はっきりいって、織田信長が嫌いである。

 これほどまで残忍な為政者は、他に例を見ないであろう。戦国乱世そのものが、残酷ではあるが、それをさっぴいてみても、彼の残忍さは際立つ。

 あえて、その罪状を列挙することはひかえるが、(日本史における周知の事実であるため)、私の信長嫌いを決定的にしたのは、これの他にある。部下に対する、今でいうパワーハラスメントである。

 だいたい部下に裏切られて最期を遂げること自体、すべてを物語っているといえそうだが、明智光秀に対する、ほとんどいじめともいえそうな、やりくちには、現代を生きる私たちからしても、到底許されるものではない。

 酒の飲めない光秀に無理やり酒を強要したり、大勢の部下の前で罵倒、足蹴にしたり、現場サイドで決めた事項を、無理やり捻じ曲げたり、、、、。

 極めつけは、領地の移動であろう。要するに、今後、基本給は全カット、その代わり全出来高払いにする、というもの。こんなことをつきつけられて、部下にやる気など出るわけがないだろう。おまけにあの陰湿ないじめだ。堪忍袋の尾がきれたのだと解釈する。

 典型的な「最悪の上司」である。哀れ、光秀も信長などに仕えなければ、このような末路を遂げなかっただろうに、、、。

 ところが最近、気になるデータがあって、日本人の求める「理想の上司」として、織田信長を挙げる人が多いとか。そういえば前首相も理想の歴史上の人物として、挙げていた。

 !!!???一体どういうことなのだろう??わけわからない。あんなことをされても、いいというのだろうか??「おまえ、俺のいうことが聞けねぇのか!!」「明日までにこの書類をまとめてこい!でないと、くびだ!!」「俺様は天魔王だ!さあ、世界は俺に平伏せ!」、、、全く神経を疑う。

 「革命には血が必要なんだよ」と言った人もいた。では、自分が犠牲になることもやむをえない、といいたいのだろうか??(多分、そうではないだろう。自分は除外、他の人の苦しみなら、関係ないし、いくらでも耐えられるってこと)

 不良、ワルはかっこいい、もてる、という倒錯した現象も見られる。この世の正義の裏には、そうした深層心理もあるのかもしれない。最近、特にそう思う。庶民レベルでそうなのだから、パワハラ、ひいては学校のいじめもなくならないのだろう。

 ワルは悩まなくてもいい。ワルは実行力がある(周りを気にしなくてもいいから)。

 ワルはもてる(極めて動物的なため、異性が寄ってくる)。ワルはかっこいい。

 世の中の多数はそうであるかもしれない。しかし、私はそれに抗した毛利方に味方する。諸城を落とされ、多数の武将が寝返り、劣勢に立たされているとはいえど、、、。

 と、いうところから毛利を選んだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月15日 (金)

毛利輝元ファン

 私は毛利輝元のファンである。全国でも珍しいであろう。少数派であることは重々承知している。

 毛利輝元(1553~1625)は、安土桃山時代の武将。中国地方をほぼ統一した戦国大名、毛利元就の後継者。織田信長と対立し、後、豊臣秀吉に従う。豊臣政権「5大老の一人」。中国筋「120万石」の太守とし、「広島」を本拠地と定める。関ヶ原の合戦で、「西軍の総大将」として大坂城にいた責を問われ、領土削減。防長2国37万石へ。「長州藩の藩祖」。

 この華麗なる経歴にして、この影の薄さ。歴史の教科書にも載るほどの大物であるのに、彼を扱った小説を、巷間あまり目にしたことがない。なぜなのだろう??

 同じ五大老の徳川家康、前田利家はともかく、上杉景勝や宇喜多秀家までも、本人を主人公とした小説の存在が認められるというのに、これはあまりにも低い評価といわざるを得ない。何か意図的な、「何か」を感じてしまうのだ。

 私が輝元に惹かれる訳はこんなところにもある。

 私の知る限りでは、最近出版された「傾国の烙印」(文芸社出版)や「毛利制覇の野望」(歴史シュミレーションもの、出版元は忘れた、、)くらいで、あとはどこにあるんだろう?もし、書店等で目にしたら、是非買い求めたいところだ。と、いって、見つかっていない。

 これには訳がある。彼の歴史的評価が散々だからだ。公正な視点で見るべきはずの史家たちまでもが、口をそろえて糾弾している。「ばか殿」「3代目ぼっちゃん大名」「凡庸な君主」、、、。わりと多面な見方でよかった「逆説の日本史」でも、輝元の件は散々だった。唯一の救いはNHKの「堂々日本史」で、その内政能力を褒めていたところだろう。

 なぜこれほどまで、言われ続けるのだろう?輝元に何か、複雑な感情でもあるのだろうか??(かの大作家、海音寺潮五郎は「あほう」とまで言ったとか!)

 その原因は関ヶ原の合戦における政治判断を誤り、当時の1級大名から3級大名に転落した、とのことらしい。勝敗は兵家の常、だと思うが、そうではなく、彼の統率能力の欠如。さらには、口車で総大将にまつりあげられた、ということだそうだ。

 毛利元就の遺訓に背き、天下に挑戦したこと?。戦国乱世、男たるもの、天下国家を夢見るのは当然と思う。勇ましくていいではないか。それをいうなら、前田利家の遺訓に背き、(?)家康と戦わず、母芳春院(お松の方)を人質に出した、利長の方がいわれなければならないだろう。しかし不思議と、「加賀100万石を守った」、とか評価されているんだから、わけがわからなくなる。

 要するに作られたイメージ、そしてマインドコントロール。歴史は正にマインドコントロール。昨今の歴史「認識」をめぐるごたごたを見ていれば、その異常さに気づいてくる。

 立場かわれば人の評価もかわると思うが、、、。甘い期待だろうか。

 私はこの春、萩に行ってみた。ここは幕末、勤皇の志士を多数輩出した、歴史的な町。関ヶ原で敗れた輝元が、開いた町でもある。だから、町の人の輝元評は悪くない。我らの町の大先輩。城跡には銅像が建っていた。

 同市・萩博物館に入ると、入り口には創始者の輝元の肖像画。感動した。

Img005_4 勿論、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら、幕末の英雄の展示が多くはあったが、はじまりは、やはり毛利輝元なのである。不動の創始者。その立場はかわらない。あまり知られていないが、彼は100万都市、「広島」の命名者なのである。広島駅前に彼の銅像があったとしても、何ら不思議ではないと思うのだ。

 また、関ヶ原後、領土が狭くなり、経営が苦しくなったのにもかかわらず、あまり人員削減、いわゆるリストラを行わなかったこともよい点だと思う。去って行った家臣にも、また時節があったら戻ってくるようにと手紙を書いたり、と、こういう点も評価されてもいいと思う。

 昨今の非情に徹した悪辣経営術を目の当たりにしている、諸氏なら、なおのこと、こうした点は重視するべきだと思うのだが。それでも日本人は織田信長大好き!らしいが、自分の首切られても、支持するんだろうか??全くわけわからない、、。

 確かに関ヶ原の判断については、疑問符をつけざるを得ない点は多々ある。しかし、その一事をもって、すべてを評価するというのは、いかがなことか。他の武将については、そうでもないのに、やはり、「何か」があるように思える。タブーな領域なのかもしれない。

 徳川の世になって、徳川史観、いわゆる「勝者の歴史観」(現在でも時と場合に限らず、散見されるが)が確立されたが、その流れなのだろうか。「負け組」の代表である、(名目だろうが、望んだことだろうが、彼は西軍総大将。紛れもなき事実なのである。)毛利輝元は格好のターゲット。つまりスケープゴートにされた感が強い。

 だから、そのまま受け取ることはできないのだ。もっと公正な見方があってもいいと思う。もっとも、私は一輝元のファンとして、そう思うのだが。

 萩に行ってよかったと思う。私はここでお土産に、現地特製「毛利Tシャツ」を買った。元就と敬親(長州藩最後の藩主)、そして輝元の名が連ねられてあった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月15日 (木)

毛利輝元の野望

 私の好きな武将は、毛利輝元である。世間の評価は、散々で、ぼっちゃん大名だの、ばか殿、だの言いたい放題だ。しかし、果たして彼は暗愚の大将だったのだろうか、というのが、私に課せられた大きなテーマだと思っている。

 「信長の野望」という人気シリーズのシュミレーションゲームがあるが、私は大の信長嫌いなので、彼の野望に最後までたちはだかった輝元に好感をもつのだ。まさに「毛利輝元の野望」である。

 輝元の評価を決定づけたのは、関ヶ原の合戦における進退で、その一点で、ここまで悪く言われるのは、合点がいかない。治世だったら、名君だったと思われる、大内政家である。私にもっと文章力があれば、輝元を主人公にした作品を描きたいところだが、それで評価が覆るか、はなはだ自信がない。

 私は策士は嫌いだが、名将といわれる人物は大なり小なり、曲者である。物事完璧にこなす人は尊敬するが、好きにはなれない。そんなところだろう。輝元と私は重なる部分がけっこうある。3代目の坊ちゃん育ち。評価もちょっと覇気にかける、とあまりよくない。

 偉大な祖父・元就と両叔父の間で、苦悩だったのだろう。劣等感にさいなまされた。丁度職場でも、優秀な武将の後継となり、果たして、というところか。私の代で「家」を潰したくはないが、どうなんだろうか、、。

 しかし、彼はなんだかんだいって、生き延びた。したたかさ、はあったと思う。私に欠けるものは、たくさんあるが、まずはその、したたかさだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月10日 (水)

天樹院 毛利輝元墓所

Img008_2  毛利の旅・レポートのつづき。萩城址見学、毛利輝元像を拝んだ後は、近くにある天樹院を訪れた。毛利輝元の墓所である。

 輝元は、萩入城後、しばらくは年若い嫡男・秀就の後見をしていたが、やがて完全に隠居。この地に屋敷を構え、住んでいたそうだ。剃髪して「幻庵宗瑞」と号した。

 ただ、隠居したとはいえ、西国一の大大名、豊臣政権の五大老をつとめた実力者。藩では頭が上がる人はいない。名誉会長として、隠然たる影響力を保持していたと思われる。

 人事や揉め事が起こる度、藩幹部が相談役の顔色を伺い、この屋敷を頻繁に訪れたさまが想像される。インターホンはなかったが、代わりに入場料(?)として20円の拝観料を入れるポスト(石の壺?)があった。財布をのぞくと、丁度十円玉がなく、100円玉を入れた。致し方なし。

Img005_2  門をくぐると、石畳の道が墓所へとまっすぐのびている。ふと、右を向けば、石囲いにかこまれた場があって、真ん中に石塔がある。ここが毛利輝元火葬場跡。輝元は1625年、73歳にて死去。腹の詰まる病、と文献にあることから、大腸癌か何かだと考えられる。遺体は荼毘に付され、この地に葬られた。屋敷は取り壊された。こうした措置は、輝元を藩祖として敬う一方、ここを神聖不可侵な場にしたてあげようとの思惑があったのではないか。歴代藩主とは明らかに別格な扱いである。

 Img007_1

 市街地の一角にありながら、霊気を感じる。荘厳なつくり。墓所への道の両サイドには、石灯籠が並べられてある。明かりがともれば、幻想的な光景だろう。東光寺、大照院(いずれも歴代藩主墓所)も、こんな感じだが、歴史の重み、というものがひしひしと感じられる。また、藩主に対する忠誠心の深さも見逃せない。これは昨日の東光寺の墓所前で、あの迫力に圧倒された時と同じおもいだ。

Img009_1  奥の着いた先が輝元の墓だ。夫人墓と並べてたてられてある。手を合わせた。まさかこの地で生涯を終えるとは思ってもみなかっただろう。どういう思いで城を見つめていたのだろうか。関ヶ原の戦い、西軍の総大将の墓である。天寿を全うした。傍らには殉死した、長井元房の墓もある。今も、こうして守るように、あり続ける。

 静かな場所だった。門の前まで来る人は見かけたが、中に入る人はいなかった。なぜだろう。私同様、観光客と思われる関西訛の一団がやってきた。「ここはなんや?」「毛利輝元の墓や」「輝元?」「元就の息子や」(孫、の間違い)こんな会話がなされていた。

 付近の土塀の中は、見事に色づいた夏みかんが、陽光に照らされ、鮮やかだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月24日 (月)

毛利輝元公像

Img001  この程、憧れの萩に行って参りました。毛利輝元が開いた町でもあります。長州藩37万石の藩祖です。

 毛利輝元の像がありました。感動しました。萩城に至る通用門の所です。萩開府400年を記念し、2004年11月10日にたてられたそうです。城の入り口にどっかりとあぐらをかき、にらみつけるような表情。ここで一礼してからでないと、城にはいかせん、そういいたげな配置でもありました。

 存在感があります。やはり輝元は中央の評価はどうであれ、この萩、および山口県(旧長州藩)にあっては、偉人であるのでしょう。彼が朝鮮戦役に従軍しなかったら、萩焼も生まれなかったのだと思えば、ここに像があるのもうなずけます。近くの売店で店員のおばさんにたずねたら、萩の創始者の像ができて当然、といった風でした。

 像の脇にはたて看板があり、解説が記されてありました。それによると、「織田信長、豊臣秀吉と覇権を争い、(秀吉とはあくまでも信長方の部将としての交戦だと思うが)天下分け目関ヶ原の合戦で一方の総大将になり、敗れ、この地にうつされた」、簡潔にいうと、そんな感じでした。かなり好意的な文章でした。この文を読む限り、信長、秀吉、家康という、天下人3人といずれも戦っている、華々しい経歴の持ち主といえるでしょう。

 城跡はすぐ近くにあります。背後は指月山。そして日本海がひろがる、正に「背水の陣」の城。多くの城下町を歩いて参りましたが、これはなんともひどくがっかりさせられるような、なんともいえない気持ちにさせられます。この指月山は遠くからはよき町のシンボルとなりえる様なのですが、戦略的に、というより、町中にない、という事のほうが重要かと思われます。

 この城の配置が輝元の複雑な感情を表現している、という見方をする人もいます。(多分大方の萩市民はそう考えるでしょう)幕府に対する徹底した恭順の意、なのか、はたまた野望の爪を隠すためか、かつてのライバルに対する鬱積した気持ち、か。「臥薪嘗胆」は260年後に現れることを思えば、この異様な城構えも理解できるというものです。

 輝元の表情は決して明るいものではありませんでした。こわいくらいです。ちなみに前回訪れた広島城(別名・鯉城)には輝元の像はありませんでした。彼が命名した「広島」の町は、100万都市として、世界にむけ、平和都市として発展を続けております。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 9日 (日)

両川なくして毛利なし?

 毛利本家は吉川、小早川の、いわゆる両川によって支えられた、とするのが今日の大きな見方だ。とりわけその巨頭である、吉川元春、および小早川隆景の両叔父が当主の輝元を補佐した。で、隆景が1597年、関ヶ原の合戦の3年前に、亡くなったため、毛利の行く末に暗雲が漂い始めた、というのである。

 ここで暗躍するのが、安国寺恵慧という外交僧で、輝元をそそのかし、西軍の総大将にまつりあげ、結果、毛利をどん底に突き落とした、というのである。安国寺の評価は別におくとして、(秀吉の台頭を予言したり、対織田方との折衝等で、外交官としては高い手腕だったと思われるが)ここまで徹底的に毛利輝元という人物を貶める理由がよくわからない。

 彼は豊臣政権の五大老であった。家康も、その一人。決戦前夜に亡くなった前田利家は別にして、毛利含めた3大老はいずれも西軍についている。立場上、そうせざるを得ないのだ。先見の明があれば、東軍についた、といいたいのだろうか?ありえない。西国一の大大名にして、五大老の重責。例えば、社長を狙っている部長に、形成不利だからといって、同格の部長が下手に出るだろうか?上杉や宇喜多に非難の声があがらないのに、一人毛利に集中するのは、理解しがたい。

 もちろん、その「指導力」に疑問符がもたれるのは確かだ。出馬を促されて、出なかった。優柔不断、と思われても仕方ない。もし、歴史にもしもはないが、関ヶ原に総大将出陣、となったら、豊臣秀頼がバックにあるだけ、西軍に勝利がもたらされていたのかもしれない。そう考えると、敗戦の一因を彼に求めるのも理由がいく。

 ただ、西軍の総大将を引き受けた、というのは、決して間違った決断ではなかったと思う。東軍が勝ったのは、結果論で、歴史というのは全てそうだが、勝利など、誰が予想できただろう?家康といえど、薄氷を踏む思いだったそうだ。だから、西軍についた将をやれ大局観がない、など槍玉にあげるのはナンセンス。それこそ勝者の敗者いびりであろう。

 両川を失って、判断力に欠け、安国寺を信じ、敗れた。まあ、なんという評価であろうか。これでは輝元も浮かばれない。両川は強力なサポートではあるが、絶対ではないだろう。むしろ隆景のような勇将がなくなって、なんの気兼ねもなく、本家主導でできる、とかえって、そのような気分があったのではないか。安国寺は決して愚者ではないし。

 隆景が生きていたら、輝元の大阪入りは阻止できた、なんていう人もいる。元就の「天下を望むなかれ」の遺訓に背いた、なんていう人も。あきれて返す言葉もないが、ここまで徹底的にいためつける、理由が知りたい気がする。馬鹿殿、ということで、思想統制しようというのだろうか?やはり歴史はイメージ先行なんだ、と感じる。

 いろいろな評価があってもいいと思う。これは歴史人物に限らず。ひとつの思想、ひとつの評価、で決めるのは恐い。もっとも、私自身も、偏った見方をすることもあるが、ここは反省し、深い洞察力と視野をもちたいと願う。

 

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年3月11日 (土)

大河ドラマの毛利輝元

 97年の大河ドラマは「毛利元就」だった。主演は中村橋之助で脚本は内館牧子だったと記憶する。ここでの輝元は、当然ながら後半のほんの少しの登場だった。尼子の遺臣・山中鹿之介との宿命的な戦いも取り上げられていたので、別に悪くはなかったが、毛利にとっては、元就亡き後の中央政権との駆け引きが、大変だったわけで、そういう意味では私にとって、少し残念だった。

 で、いちおしは2000年の大河ドラマ「葵・徳川三代」における輝元である。これも登場は少しであったが、いやいやなかなかの出来栄え。なんといっても宇津井健演じる、老境の輝元は、渋みあり、大国の国主として、貫禄十分であった。

 上段に輝元が座り、脇を宇喜田秀家が固め、下段にかしこまって石田三成が言上するという、西軍首脳陣。未だに三成を西軍の総帥と言う人がいるが、史実はこうだったのだろう。格が違う。大老と奉行。三成は幹事役に徹していた。

 扇子を常に持っていた。三成の報告を聞きながら、渋面を浮かべる。会議における社長、という風でよかった。このあたりのシーンはビデオで録画したくらいだ。私も当時、かぶれて扇子を持ち歩いていた。

 戦いに敗れ、大阪城を明け渡す時、馬上未練たっぷりに振り返る様が、印象的だった。歴史に「もしも」はないというが、西軍が勝利していたら、彼の立場はどうなっていただろう。天下の大阪城にいただけ、かなり優位である。家康と入れ替わり、五大老筆頭の位置につけたか、もしくは毛利幕府の可能性もあったかもしれない。

 ここが歴史の面白いところ。紙一重だろうが、彼は結果的に敗れた。しかも敗軍の将である。首をはねられてもおかしくはないが、幸い、生きながらえた。なんだかんだいって、したたかである。彼を嘲る人は多いが、それは勝ち組の負け組に対する嫌がらせのようにしか私は思えない。その勝ち組だって、紙一重だったというのに。

 後年、天下人となった家康のもとを、かつてのライバル輝元が訪れるというシーンもあった。かつては五大老として、同格だった二人。しかし今や地位は逆転。下段から悔しさがこみあげる。ひととおりの挨拶の後、ふと目をそらしながら、「それにしても、、、世の中思いどおりにいかないものですな、、、。」(だったと記憶する)とこぼす。家康、逃さず目をむき、「何ぃ!?」と聞き返す。輝元あわてて手をあげ、「いやいや独り言ですよ。(お気になさらずに)」と笑ってごまかす。彼のプライドを見た思いがした。このシーンを入れた脚本家の方に拍手を送りたい。

 その後の登場シーンはない。しかしこれだけでも、見ごたえは十分にあったと感じた。輝元は三代将軍の代まで長生きする。どんな思いで、世の推移を眺めていただろう。

 長州藩の歴代藩主は新年の挨拶の際、家臣に「今年こそ江戸を攻める時ではありませんか?」と言わせ、藩主が「いやいや今はその時ではない」と返すのが、恒例だったという。誰が始めたのか知らないが、おそらく輝元の意地から出たのではないか。

 臥薪嘗胆は260年後、幕末の嵐となって、吹き荒れた。

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月27日 (金)

歴史的な評価

 西日本最大の大名、織田信長「天下布武」の最後の挑戦者、信長包囲網の盟主、豊臣政権五大老の一人、100万都市・広島の命名者、天下分け目関ヶ原の合戦・西軍の総帥、長州藩の藩祖、、。この輝かしい経歴と反比例するかのような、世間の低評価。

 これが私が輝元に興味を持った一面でもある。よく書かれた書物をお目にしたことがない。なぜだろう、、。やはり負け組、それもトップであったためか?

 「傾国の烙印」(文芸社)では若干ではあるが、よい面も引き出していた。しかし、大部分は不肖な3代目、といった域から抜け出ていないような気がする。残念でならない。

 関ヶ原の評価はまた別に機会をおくとして、私は信長の敵役だったということに注目したい。アンチ信長を自認する私にとって、最後まで徹底抗戦をし、包囲網を形成したことは立派だと思う。

 破廉恥、非道な信長と3代目ぼっちゃん育ちといわれる輝元。この両者の対立は、善と悪とかいうよりも不良と優等生の戦いのようで面白い。

 勿論私は、優等生に味方する。不良は大嫌い。不良はかっこいい、例え人の道から外れても、仕事ができれば、もっといえば、成功するなら、なんでもいい、という昨今の風潮には危うさを感じる。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

毛利輝元の生涯

 毛利輝元(1553~1625)  広島・山口

 安土桃山時代の武将。戦国大名・毛利元就の孫。1563年、父・隆元の死により、家督を相続。祖父・元就が後見した。山陰の雄、尼子氏を滅ぼし、中国地方10カ国、西日本最大の大名にのしあがった。居城・吉田郡山城(広島県)。

 1571年元就没後は、吉川・小早川のいわゆる「両川」の叔父が後見。天下統一を狙う織田信長の、中国地方進出に立ちはだかる。しかし羽柴秀吉の攻撃に次第に戦況不利となり、講和。1582年本能寺の変で信長が横死するや、秀吉の中国大返しには追撃せず、結果的に彼の天下取りに貸しを作ることになった。

 豊臣(旧姓・羽柴)秀吉が天下統一を果たすと、その五大老(今でいうところの5常任理事国)の一角を占め、九州や朝鮮の戦役に活躍した。居城をうつし、そこを「広島」と命名。後の100万都市、広島の生みの親となる。

 秀吉亡き後の1600年、関ヶ原の合戦が勃発。西軍の総大将として天下の大阪城に入城。秀吉の遺児、秀頼を擁し、兵馬の権を握ったが、西軍参謀・石田三成が徳川家康に破れ、降伏。撤退する。

 これにより120万石の領土は削られ、萩(山口県)36万石の小大名に転落した。長州藩のはじまり。その藩祖となる。家督を子の秀就に譲り、隠居。3代将軍・家光の代まで生きた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)